ここで書くことに証拠や根拠はありません。ですが、映画を見て考察するというのはそういうものだと思います。あくまでわたしの脳内で納得しただけの妄想です。
人によって、あるいは作品によって異なると思いますが、少なくともわたしにとって「シン・ゴジラ」はどうにかして解釈を付けないとどうも何かが詰まったような感覚を覚える作品でした。例えば作中における音楽の一部を過去の東宝特撮作品で使用した伊福部昭氏を流用してしようしていますが、その中で決戦シーンに「宇宙大戦争」に使われていることが初見ではもう一つ納得のいかないものでした。ゴジラの鎌倉進入時には「メカゴジラの逆襲」の曲を、それも曲調の変わる楽章以降を使わず、冒頭部分だけをわざわざリピートして使ったのはその部分だけが「ゴジラ」第一作に使われたテーマ曲のモチーフが使われているため、知らない人には第一作の曲に聞こえるためと、「メカゴジラの逆襲」が鎌倉と同じく神奈川県内の横須賀市を舞台としているためでしょう。しかも「メカゴジラの逆襲」は当時のサイズ50m前後にはやや大き過ぎるサイズで怪獣が合成されているシーンがあり、それが「シン・ゴジラ」の118.5mに近い印象を受けるというのもあったと思われます。それくらいマニアックなこだわりをもって選曲された作品なのに、あまりあっているとは思えない「宇宙大戦争」の曲を使ったのはなぜなんでしょうか? それをはじめとするいくつかの初見で発生した謎に迫るため、わたしは東京にいたときにもう一度「シン・ゴジラ」を見てきました。クライマックス、確かに必ずしも合っていないのですがそれでも何かこみあげてくるものが・・・。ああ、思い出しました。確かに「宇宙大戦争」の曲でゴジラシリーズに使われた曲ではありませんが、一度だけゴジラに合わせて使われたことがありました。それは「キングコング対ゴジラ」の予告編でです。その予告編において「宇宙大戦争」の曲は「ゴジラ勝つか? コング勝つか? 世紀の大決闘!」というキャッチの字幕が三カットの細かくスピーディーな組み合わせの部分で使われ、ファンの心を熱くさせる一翼を担っています。なるほど、あそこの選曲者は「キングコング対ゴジラ」の予告編に燃えた人だったのか、ゴジラと日本の"世紀の大決闘"に合わせるにはこれ以外なかったのかも知れません。もちろんわたしの頭の中だけの勝手な納得ですが、物が詰まっていて棒が通らない筒に何度も棒を突き刺し続け、うまくヒットして詰まっていたものが一気に零れ落ちたような感触を覚えました。やはり映画を理解するには良い音質の劇場で鑑賞するのが正しいのだと改めて思った次第です。
しかし、わたしにとっての「シン・ゴジラ」最大の謎はそこではありません。序盤登場する従来のゴジラ像とは似ても似つかない、第3段階までのゴジラのことです。「シン・ゴジラ」は公開まで内容のほとんどが秘密とされ、それ以前に発売された関連図書も中盤以降のゴジラの姿やスタッフインタビューが内容の大半を占め、序盤ゴジラに関しては一言も触れられていませんでした。不完全な姿の幼体ゴジラ(所謂ゴジラらしいゴジラは第四段階だそうですが、第一と第二段階の区別が劇中イマイチよくわからないので第三段階まで含めてこう呼称します)がその中でも最大の秘密、トップシークレット扱いだったのは間違いないでしょう。しかし、なぜあの姿のゴジラを描いたのでしょうか。今までもゴジラとあまりに違うイメージの、クリーチャーにも似たデザイン。特に第一段階は従来の日本怪獣が持っていた怖さ醜さの中にもどこか美しさがある、そういうデザインに全くなっていません。別にああいうゴジラを出す必要はなかったはずですし、むしろゴジラの神秘性を大幅に損なう結果にすらなっているはずです。今のところ「シン・ゴジラ」の評判は少々気味が悪いほど好評しか聞こえてきませんが、あの幼体(妖怪?)ゴジラを評価する声はあまり聞こえません。見なかったことにでもしているのでしょうか。だからこそあそこに最大の謎がある、そう思えてならなかったのです。
映画初見直後に考えていた理由は
・怪獣だけでなくクリーチャー的存在を出すことで海外で受け入れられやすくする
・放射能の影響での奇形をより強調したかった
・どことなく1998年トライスター版GODZILLAに似ている点から、実は庵野監督はトラゴジが好きなので出したかった
などを考えましたが、わたしの疑問の筒は詰まったままで棒は突き刺さるのが精一杯で向こうまで突き抜けてくれません。一番しっくりくるのは第一段階ではあきらかにゴジラには前腕がないことから2番目の"奇形"強調説なんですが、最終的には生えてくるわけですからやっぱり違う気がします。大体前腕や前足がなくて後足だけある動物なんて、せいぜいカエルの子のオタマジャクシの成長過程の途中くらいなものでしょう。劇中でゴジラは「進化の過程を個体だけで実現する完全生物」なんて言ってますが、まるで進化するがごとく大きく姿を変える動物という点ではカエルだって同じです。でもカエルは完全生物どころか動物の中では原始的な方でしょう。他に進化過程を得るがごとく成長する生物と言えば、完全変態の昆虫でしょうか。昆虫はある意味完全生物だなぁ、両生類や哺乳類のような脊椎動物とはまるで違う身体的特徴を持っていることですし、節足動物の究極と言ってもいいかも。でも昆虫怪獣だとモスラかいますし。
・・・ふむ、昆虫・・・。昆虫と言えば・・・。
一度"昆虫"が思考に入ってきてから急速に考えがまとまりはじめ、思いついた一つのキーワードが新たな考えを導きました。思いついたキーワードは"擬態"、そこから導かれた考えは"収斂進化(しゅうれんしんか)"でした。
擬態とは主に昆虫類に見られるもので、他の生物に似た外見を持つことで外的あるいは獲物目をごまかすという一種の防衛能力です。ナナフシのように木の枝そっくりの外見で紛れるものもいれば、ハナアブのように目立ちますがハチに似ることで強そうにみせるものもいます。一方収斂進化とは擬態の後者の例と似ていますが、進化元となる生物全く異なるものでありながら、似たような生活環境で進化の過程を経たことで似た外見を持ってしまった生物関係をいいます。昆虫類ではカマキリとカマキリモドキの関係が有名ですが、サメとイルカのように脊椎動物でも珍しくありません。ひょっとしたら、幼体ゴジラは「シン・ゴジラ」のゴジラ(以下シン・ゴジラ)は従来ゴジラの収斂進化にすぎず、似ているだけで全く異なることをより強調したかったので出したのではないでしょうか。
もっとも、わざわざそうして強調せずともゴジラとシン・ゴジラが全く異なる存在であることは明らかです。ゴジラは第一作での「水爆大怪獣映画」のキャッチが示すように水爆・核兵器をイメージとして持っています。それはひとたび人類に向けられるや未曾有の被害を引き起こしはしますが、その一方で最強の防衛手段として有効であり、人類の、あるいは日本を守る役割すら果たしています。ゴジラは水爆・核兵器であると同時に米国の現身であったとわたしは考えています。最強にして凶暴、自分に歯向かうものには容赦しない、その代わりに人類が共存を望むのなら守ることもやぶさかではない。少なくともゴジラ初期作品群から"東宝チャンピオンまつり"シリーズに関してこのイメージは一貫しています。一方、シン・ゴジラには核兵器の匂いは感じません。これは「日本も核兵器を持つべきだ」と大きな声で唱える人が出てきている昨今、核兵器を投影してもリアリティーがないからでしょう。作品を見る限りシン・ゴジラに投影されているのは原発でした。だから政治家官僚が登場人物のほとんどを占める本作のシン・ゴジラは冷却で完全に管理される最後を迎えなければならなかったのです。そして見た目に反して凶暴性は薄く、痛い目に合わなければ攻撃を受けても全く反撃しませんが、ひとたび痛い目をみるや自分でも制御できずに活動を停止しなければならないほどの異常な反撃をみせ、周囲を焦土と化しました。そのあとはそれまでとは逆に過剰なほどの防衛反応を見せ、偵察機を遠距離から撃ち落とすほどの反応を見せます。ゴジラが米国の現身なら、シン・ゴジラは日本の現身です。それは作品を見る限り確かであり、世界が違うとはいえ、収斂進化と呼んでいいほど違う存在なのは間違いないでしょう。ならばなぜ批判覚悟で幼体ゴジラを出したのか。
ここでちょっと実験をしてみました。サンプルとして怪獣映画に比較的詳しく、ゴジラに関してはちょっとうるさい人間を用意しましょう、と言ってもわたし本人しか用意できる該当者はいませんが(笑)。そしてわたしにこんな提案がなされたとします。「今度の新作ゴジラのたたき台にするから、ストーリーやゴジラの設定の原案を考えてみろ」と。
まず最初の2日ほどはポーッとしながら漠然としたイメージを膨らませ、落書きのようなメモ書きととりながらだいたいの感触をつかむことに専念します。3日目にぼちぼち下書きだけでも始めるか・・・とPCの前にすわってキーボードをたたきはじめ・・・数ページ書かないうちに全文消去、書き直そうと最初からやり直してもその半分くらいでまた全文消去、それを繰り返すうちにとうとう一文字も書けなくなってしまい、さらに三日三晩そこらへんをのたうち回ったあげく「無理ですごめんなさい一文字も書けませんでしたお願いですから全部なかったことにしてください」と土下座してあやまる未来しかシミュレートできませんでした。
ゴジラを知っている、ということはゴジラのイメージにとらわれやすいということです。特に「オレのゴジラ」のイメージのある人ほどその傾向は強いでしょう。新しいゴジラを書こうとしてもそのイメージを引きずる限り、何もできないということがよく分かりました。もちろんド素人とプロを同じ次元で比べちゃいけないかも知れませんが、今回ストーリ脚本を担当した庵野監督が「ゴジラ」のイメージの重さに苦悩しなかったわけは絶対にないです。これを解決して自分の書きたいストーリーでのゴジラを書く方法、一番手っ取り早いのは"ゴジラに似て異なる怪獣”をまず定義して"ゴジラみたいだけどゴジラじゃない怪獣"が出てくるストーリーを一度完成させ、そのあとでその怪獣をゴジラにすべく肉付けするやり方だと思います。幼体ゴジラはその名残であり、これを登場させなければ「シン・ゴジラ」を作ることすらできない、己の精神をささえる「ゴジラにあってゴジラに非ず」の象徴。それがわたしの疑問の筒に詰まったものを全部取り除く答えでした。「シン・ゴジラ」初見において得た感想、「怪獣映画としては面白いけど、ゴジラ映画としてはなんか違う」の想いともピタリ一致しますし、少なくともわたしの中では一本の線がようやくつながりました。もちろん証拠など一つもありませんし、おそらく製作中に感じた裏側全てが明らかになることは絶対にないでしょう。各自が疑問を持ったものは各自が勝手に自分の答えを見つければいいのです。
「シン・ゴジラ」の続編は非常に難しくなるでしょう。本作はできることには全力を傾けましたが、できないこと・難しいことは少しごまかす感じで作っています。なかでもゴジラをほぼフルCGで製作したことは、後のことを考えたらよかったのかどうか。従来とは違い、破壊するミニチュアをぬいぐるみのサイズに合わせなくてもよくなったため、おそらくかなり大きく作ったミニチュアが破壊されるシーンは見応え十分ですがその分CG主体の都市破壊は見劣りしますし、ほとんど動いていないシーンはリアリティも十分あるゴジラも動き出すとCG臭さがまし、現実味がなくなるシーンも多々見られました。おそらく現状の日本のVFX技術で怪獣を大いに動かし、怪獣同士が戦ったりするのはかなり難しそうです。かと言って毎回今回みたいな話ではすぐに飽きられますし。おそらく続編は何をやっても「シン・ゴジラは良かったのに」と酷評されるでしょう。アメリカの怪獣映画の作られ方次第では、また日本のゴジラは眠りにつくかもしれません。
最後にもう一つ疑問。今までゴジラものが作られるたび「反核メッセージのないゴジラはゴジラじゃない」というお約束の批判が浴びせられたというのに、なんで「シン・ゴジラ」はそういう批判が表に出てこないのでしょうか? 今まで批判してきた人は本作についてどう思っているのか知りたいところ。わたしはゴジラは第一作から反核ではないと解釈しているのでそういう批判をする基礎思考がないので、シミュレートのしようがないのです、はい。
人によって、あるいは作品によって異なると思いますが、少なくともわたしにとって「シン・ゴジラ」はどうにかして解釈を付けないとどうも何かが詰まったような感覚を覚える作品でした。例えば作中における音楽の一部を過去の東宝特撮作品で使用した伊福部昭氏を流用してしようしていますが、その中で決戦シーンに「宇宙大戦争」に使われていることが初見ではもう一つ納得のいかないものでした。ゴジラの鎌倉進入時には「メカゴジラの逆襲」の曲を、それも曲調の変わる楽章以降を使わず、冒頭部分だけをわざわざリピートして使ったのはその部分だけが「ゴジラ」第一作に使われたテーマ曲のモチーフが使われているため、知らない人には第一作の曲に聞こえるためと、「メカゴジラの逆襲」が鎌倉と同じく神奈川県内の横須賀市を舞台としているためでしょう。しかも「メカゴジラの逆襲」は当時のサイズ50m前後にはやや大き過ぎるサイズで怪獣が合成されているシーンがあり、それが「シン・ゴジラ」の118.5mに近い印象を受けるというのもあったと思われます。それくらいマニアックなこだわりをもって選曲された作品なのに、あまりあっているとは思えない「宇宙大戦争」の曲を使ったのはなぜなんでしょうか? それをはじめとするいくつかの初見で発生した謎に迫るため、わたしは東京にいたときにもう一度「シン・ゴジラ」を見てきました。クライマックス、確かに必ずしも合っていないのですがそれでも何かこみあげてくるものが・・・。ああ、思い出しました。確かに「宇宙大戦争」の曲でゴジラシリーズに使われた曲ではありませんが、一度だけゴジラに合わせて使われたことがありました。それは「キングコング対ゴジラ」の予告編でです。その予告編において「宇宙大戦争」の曲は「ゴジラ勝つか? コング勝つか? 世紀の大決闘!」というキャッチの字幕が三カットの細かくスピーディーな組み合わせの部分で使われ、ファンの心を熱くさせる一翼を担っています。なるほど、あそこの選曲者は「キングコング対ゴジラ」の予告編に燃えた人だったのか、ゴジラと日本の"世紀の大決闘"に合わせるにはこれ以外なかったのかも知れません。もちろんわたしの頭の中だけの勝手な納得ですが、物が詰まっていて棒が通らない筒に何度も棒を突き刺し続け、うまくヒットして詰まっていたものが一気に零れ落ちたような感触を覚えました。やはり映画を理解するには良い音質の劇場で鑑賞するのが正しいのだと改めて思った次第です。
しかし、わたしにとっての「シン・ゴジラ」最大の謎はそこではありません。序盤登場する従来のゴジラ像とは似ても似つかない、第3段階までのゴジラのことです。「シン・ゴジラ」は公開まで内容のほとんどが秘密とされ、それ以前に発売された関連図書も中盤以降のゴジラの姿やスタッフインタビューが内容の大半を占め、序盤ゴジラに関しては一言も触れられていませんでした。不完全な姿の幼体ゴジラ(所謂ゴジラらしいゴジラは第四段階だそうですが、第一と第二段階の区別が劇中イマイチよくわからないので第三段階まで含めてこう呼称します)がその中でも最大の秘密、トップシークレット扱いだったのは間違いないでしょう。しかし、なぜあの姿のゴジラを描いたのでしょうか。今までもゴジラとあまりに違うイメージの、クリーチャーにも似たデザイン。特に第一段階は従来の日本怪獣が持っていた怖さ醜さの中にもどこか美しさがある、そういうデザインに全くなっていません。別にああいうゴジラを出す必要はなかったはずですし、むしろゴジラの神秘性を大幅に損なう結果にすらなっているはずです。今のところ「シン・ゴジラ」の評判は少々気味が悪いほど好評しか聞こえてきませんが、あの幼体(妖怪?)ゴジラを評価する声はあまり聞こえません。見なかったことにでもしているのでしょうか。だからこそあそこに最大の謎がある、そう思えてならなかったのです。
映画初見直後に考えていた理由は
・怪獣だけでなくクリーチャー的存在を出すことで海外で受け入れられやすくする
・放射能の影響での奇形をより強調したかった
・どことなく1998年トライスター版GODZILLAに似ている点から、実は庵野監督はトラゴジが好きなので出したかった
などを考えましたが、わたしの疑問の筒は詰まったままで棒は突き刺さるのが精一杯で向こうまで突き抜けてくれません。一番しっくりくるのは第一段階ではあきらかにゴジラには前腕がないことから2番目の"奇形"強調説なんですが、最終的には生えてくるわけですからやっぱり違う気がします。大体前腕や前足がなくて後足だけある動物なんて、せいぜいカエルの子のオタマジャクシの成長過程の途中くらいなものでしょう。劇中でゴジラは「進化の過程を個体だけで実現する完全生物」なんて言ってますが、まるで進化するがごとく大きく姿を変える動物という点ではカエルだって同じです。でもカエルは完全生物どころか動物の中では原始的な方でしょう。他に進化過程を得るがごとく成長する生物と言えば、完全変態の昆虫でしょうか。昆虫はある意味完全生物だなぁ、両生類や哺乳類のような脊椎動物とはまるで違う身体的特徴を持っていることですし、節足動物の究極と言ってもいいかも。でも昆虫怪獣だとモスラかいますし。
・・・ふむ、昆虫・・・。昆虫と言えば・・・。
一度"昆虫"が思考に入ってきてから急速に考えがまとまりはじめ、思いついた一つのキーワードが新たな考えを導きました。思いついたキーワードは"擬態"、そこから導かれた考えは"収斂進化(しゅうれんしんか)"でした。
擬態とは主に昆虫類に見られるもので、他の生物に似た外見を持つことで外的あるいは獲物目をごまかすという一種の防衛能力です。ナナフシのように木の枝そっくりの外見で紛れるものもいれば、ハナアブのように目立ちますがハチに似ることで強そうにみせるものもいます。一方収斂進化とは擬態の後者の例と似ていますが、進化元となる生物全く異なるものでありながら、似たような生活環境で進化の過程を経たことで似た外見を持ってしまった生物関係をいいます。昆虫類ではカマキリとカマキリモドキの関係が有名ですが、サメとイルカのように脊椎動物でも珍しくありません。ひょっとしたら、幼体ゴジラは「シン・ゴジラ」のゴジラ(以下シン・ゴジラ)は従来ゴジラの収斂進化にすぎず、似ているだけで全く異なることをより強調したかったので出したのではないでしょうか。
もっとも、わざわざそうして強調せずともゴジラとシン・ゴジラが全く異なる存在であることは明らかです。ゴジラは第一作での「水爆大怪獣映画」のキャッチが示すように水爆・核兵器をイメージとして持っています。それはひとたび人類に向けられるや未曾有の被害を引き起こしはしますが、その一方で最強の防衛手段として有効であり、人類の、あるいは日本を守る役割すら果たしています。ゴジラは水爆・核兵器であると同時に米国の現身であったとわたしは考えています。最強にして凶暴、自分に歯向かうものには容赦しない、その代わりに人類が共存を望むのなら守ることもやぶさかではない。少なくともゴジラ初期作品群から"東宝チャンピオンまつり"シリーズに関してこのイメージは一貫しています。一方、シン・ゴジラには核兵器の匂いは感じません。これは「日本も核兵器を持つべきだ」と大きな声で唱える人が出てきている昨今、核兵器を投影してもリアリティーがないからでしょう。作品を見る限りシン・ゴジラに投影されているのは原発でした。だから政治家官僚が登場人物のほとんどを占める本作のシン・ゴジラは冷却で完全に管理される最後を迎えなければならなかったのです。そして見た目に反して凶暴性は薄く、痛い目に合わなければ攻撃を受けても全く反撃しませんが、ひとたび痛い目をみるや自分でも制御できずに活動を停止しなければならないほどの異常な反撃をみせ、周囲を焦土と化しました。そのあとはそれまでとは逆に過剰なほどの防衛反応を見せ、偵察機を遠距離から撃ち落とすほどの反応を見せます。ゴジラが米国の現身なら、シン・ゴジラは日本の現身です。それは作品を見る限り確かであり、世界が違うとはいえ、収斂進化と呼んでいいほど違う存在なのは間違いないでしょう。ならばなぜ批判覚悟で幼体ゴジラを出したのか。
ここでちょっと実験をしてみました。サンプルとして怪獣映画に比較的詳しく、ゴジラに関してはちょっとうるさい人間を用意しましょう、と言ってもわたし本人しか用意できる該当者はいませんが(笑)。そしてわたしにこんな提案がなされたとします。「今度の新作ゴジラのたたき台にするから、ストーリーやゴジラの設定の原案を考えてみろ」と。
まず最初の2日ほどはポーッとしながら漠然としたイメージを膨らませ、落書きのようなメモ書きととりながらだいたいの感触をつかむことに専念します。3日目にぼちぼち下書きだけでも始めるか・・・とPCの前にすわってキーボードをたたきはじめ・・・数ページ書かないうちに全文消去、書き直そうと最初からやり直してもその半分くらいでまた全文消去、それを繰り返すうちにとうとう一文字も書けなくなってしまい、さらに三日三晩そこらへんをのたうち回ったあげく「無理ですごめんなさい一文字も書けませんでしたお願いですから全部なかったことにしてください」と土下座してあやまる未来しかシミュレートできませんでした。
ゴジラを知っている、ということはゴジラのイメージにとらわれやすいということです。特に「オレのゴジラ」のイメージのある人ほどその傾向は強いでしょう。新しいゴジラを書こうとしてもそのイメージを引きずる限り、何もできないということがよく分かりました。もちろんド素人とプロを同じ次元で比べちゃいけないかも知れませんが、今回ストーリ脚本を担当した庵野監督が「ゴジラ」のイメージの重さに苦悩しなかったわけは絶対にないです。これを解決して自分の書きたいストーリーでのゴジラを書く方法、一番手っ取り早いのは"ゴジラに似て異なる怪獣”をまず定義して"ゴジラみたいだけどゴジラじゃない怪獣"が出てくるストーリーを一度完成させ、そのあとでその怪獣をゴジラにすべく肉付けするやり方だと思います。幼体ゴジラはその名残であり、これを登場させなければ「シン・ゴジラ」を作ることすらできない、己の精神をささえる「ゴジラにあってゴジラに非ず」の象徴。それがわたしの疑問の筒に詰まったものを全部取り除く答えでした。「シン・ゴジラ」初見において得た感想、「怪獣映画としては面白いけど、ゴジラ映画としてはなんか違う」の想いともピタリ一致しますし、少なくともわたしの中では一本の線がようやくつながりました。もちろん証拠など一つもありませんし、おそらく製作中に感じた裏側全てが明らかになることは絶対にないでしょう。各自が疑問を持ったものは各自が勝手に自分の答えを見つければいいのです。
「シン・ゴジラ」の続編は非常に難しくなるでしょう。本作はできることには全力を傾けましたが、できないこと・難しいことは少しごまかす感じで作っています。なかでもゴジラをほぼフルCGで製作したことは、後のことを考えたらよかったのかどうか。従来とは違い、破壊するミニチュアをぬいぐるみのサイズに合わせなくてもよくなったため、おそらくかなり大きく作ったミニチュアが破壊されるシーンは見応え十分ですがその分CG主体の都市破壊は見劣りしますし、ほとんど動いていないシーンはリアリティも十分あるゴジラも動き出すとCG臭さがまし、現実味がなくなるシーンも多々見られました。おそらく現状の日本のVFX技術で怪獣を大いに動かし、怪獣同士が戦ったりするのはかなり難しそうです。かと言って毎回今回みたいな話ではすぐに飽きられますし。おそらく続編は何をやっても「シン・ゴジラは良かったのに」と酷評されるでしょう。アメリカの怪獣映画の作られ方次第では、また日本のゴジラは眠りにつくかもしれません。
最後にもう一つ疑問。今までゴジラものが作られるたび「反核メッセージのないゴジラはゴジラじゃない」というお約束の批判が浴びせられたというのに、なんで「シン・ゴジラ」はそういう批判が表に出てこないのでしょうか? 今まで批判してきた人は本作についてどう思っているのか知りたいところ。わたしはゴジラは第一作から反核ではないと解釈しているのでそういう批判をする基礎思考がないので、シミュレートのしようがないのです、はい。