東京にいる間は何本か映画を見ることにしています。やはりスクリーンの広さも設備も違いますからね。特に特撮系の映画の場合その映像の作りを堪能したいわけですからゴリゴリと。特に今年はアメリカ・ハリウッドと日本の特撮からそれぞれ怪獣映画のバリエーションと考えるべき二作品が同時に公開されていますからね。片方はあまり評判がよろしくなく、評価いろいろな様子ですが、それだけに楽しみ。もう8月も終わりだというのに映画の感想を書いてもいまさらではありますが。
まずはアメリカ製。恐竜映画の歴史を変えた「ジュラシック・パーク」シリーズ久々の新作、「ジュラシック・ワールド」。第一作に感激した身としては公開中に劇場で見なければなるまい。今回の恐竜の目玉は、コードネーム"バッドボーイ"ことインドミナス・レックス。完全一般公開されたアミューズメントパーク、"ジュラシック・ワールド"内の新しい目玉として今までの恐竜よりも巨大で恐ろしいものをと遺伝子操作で作り上げた新種の恐竜・・・というより人工生物という点でほとんど怪獣である。と言ってもここを揶揄する気はない。そもそも映画「ジュラシック・パーク」では簡単な説明で済まされたが原作小説の「ジュラシック・パーク」では琥珀の化石内に閉じ込められていた蚊から採取した恐竜の遺伝子は完全なものではなく、一部が欠如していたため、コンピュータによって配列パターンを解析して穴埋めを行ったり、意図的に操作して人間から与えられる特定の栄養素を定期的に摂取しながらでないと生きられない体となっていた~もちろん逃走対策のため~生物だったのだ。つまり第一作の時点で本シリーズに登場する恐竜は全て人工的に手を加えられたハイブリッドであり、インドミナス・レックスのみが特別な存在というわけではない。少なくとも第二・三作目のようになぜか新種が次々と登場するより説得力のある描写ではある。恐竜を作り上げた本来の目的であるアミューズメントパーク設立といい遺伝子操作に対する取り組みといい、間が空いたことで第一作の原点にある程度帰って作り直そうとした感はある。
序盤はその恐竜パークの様子が楽しそうに表現され、進歩したCGIで描かれた恐竜や魚竜が人々を驚かせる。だが、長い時間はCGI技術を進歩させた以上にわたしら視聴者の目をCGIに慣れさせた。確かに昔のストップモーション・アニメで表現され、フィルムの重ね合わせで合成された恐竜と比べれば臨場感はケタ違い。だが、それを見抜く目をもうわたしらは持っている。なまじっか本物に近づけただけに違和感はかえって浮き彫りになり、CG臭い動きや表面処理になんとなくザワザワする・第一作はCGI表現ばかり言われるが、実は恐竜の大半はアニマトロニクス、つまりロボットで描かれていてCGIの利用は思ったよりも少ない。第一作のすごさはまだまだ未成熟だったCGIと熟練した技術であるアニマトロニクスを区別する隙を与えない卓越した演出と編集技術にあった、とわたしは思っている。多分当初予定されていたストップモーション・アニメの最終形態とも言うべきゴー・モーションを使っても同じくらい面白い映画は撮れたと思う。ただ映画の歴史を変えた作品とは評されず、今回の第4作は作られなかったとも思うので、結果CGI映画として広まったのは良かったことだろう。一方本作は進歩したCGIだらけ。モササウルスなどはそりゃCGIで無ければ難しいのであれはいいと思う(デカ過ぎるけど)が、轡をかまされ、人になでられるラプトルまでCGIだったのは閉口。ケチケチせずにアニマトロニクス使えよ、とか余計なことを考えてしまう。アニマトロニクスが効果的に使われたのは死にかけたアパトサウルスくらい? 家族問題とかの本編ストーリーも無理矢理付けた感があり、序盤は全体的に退屈。一瞬意識を失ったほど。さらにインドミナス・レックスの逃亡を許す過程がちょっと酷い。たかが壁に爪痕がついていたくらいで壁を乗り越えて逃亡した、を大前提に行動するのがちょっと信じられない。ここら辺の描写が全体を通して気に入らず、まぁそれほど期待してなかったのでこんなものか、感が頭を支配。
ただ、そういうヌルい展開でなくても良くなった、人間特に兄弟の出番が第三者的になっていってからは急展開、インドミナス・レックスとそれを止めんとする警備隊の壮絶なバトルというシンプルな内容となってからは逆に退屈する暇を与えない怒濤の描写になっていく。こういう展開となればもうCGIだろうとアニマトロニクスだろうと関係なし。最強の恐竜を目指して造られたインドミナス・レックスはひたすら強くて残虐、他の恐竜も思わせぶりな兵器を繰り出してくる人間たちも次々となぎ倒していく様は、従来シリーズのパニック描写とは全く異なる展開。ある意味「GODZILLA(2014)」以上に弱く相手にたたきのめされる人間ですが、米軍ではなく私設の警備隊のようですから弱くてOKなんでしょう。とうとう打つ手がなくなった時、主人公たちが選んだ最後の策・・・。痺れた。全身から何かが出てきた。まさかジュラシックシリーズで第一作のブラキオサウルス登場シーンと同じ感激を本作で味わい、涙が出てくるなんて冒頭の退屈さからは想像もしてなかった。この映画は第一作に戻そうとする空気はあるものの、当時は最新の恐竜研究に基づいて再現しようとしていたのに対し、羽毛恐竜が全く出ていない点(特にラプトルの羽毛の存在はかなり有力と見られているはず)や翼竜が鳥のように自由に羽ばたいて空を飛んでいるなど、あまり格好良くなくなった現在のそれではなく格好いい昔の恐竜の姿を優先するあたり恐竜映画としては下、ただし怪獣映画としては極上、間違いなく頭でアメリカの怪獣を理解し、心に日本の怪獣を宿した人間の仕事だった。恐竜やハイブリッド種を兵器として利用しようとする組織が暗躍するという如何にもアメリカ製怪獣ものの空気を漂わせながら、最後に最強の助っ人がまさかの共闘態勢で強大な敵に立ち向かう完全なる日本の怪獣映画描写。それは「パシフィック・リム」や「GODZILLA(2014)」が「日本の怪獣映画の影響を受けて作られた」と宣伝されなからも結局は表面的な真似事でしかなかった居心地の悪さとは異質の、本質的な影響を感じる。そもそもインドミナス・レックスが映像の中で最初に襲いかかり、それに防戦する様子を描いた最初の恐竜はアンキロサウルスなのだ。これはアンキロサウルスをモデルにして怪獣化したアンギラスと戦う「ゴジラの逆襲」へのオマージュを通じたゴジラ作品を初めとする日本怪獣全体への愛の表現に見えた、見えたというより断言したいくらいだ。最初に思っていた物とは大分違う映画ではあったが久々にハリウッド系で大満足の怪獣ものをみれた高揚感は言うこと無しだった。
一方この夏の日本の怪獣映画と言えば「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」(以下ATTACK ON TITAN省略)。巨人が人間そのもの過ぎて嘲笑の対象とされ、非難側に回る方が勝ち組の空気すらあることはネットでみていた。進撃の巨人の映画を検索かけるとそれと「ブチ切れ」と評されるスタッフの対応ばかり出てくるくらい。まぁその手の話はおいておくとして、樋口真嗣監督と言えば2016年の新作ゴジラ監督になっている人物。次の怪獣映画を作る人間として、今はどういう映画を作ってくるか見ておきたい。なお、わたしは原作やアニメの「進撃の巨人」を最初の一話くらいしか見ておらず、ストーリーとかほとんど知らない。最初の巨人が人間を喰いまくる描写だけでお腹いっぱいになった感じでそれ以上観る気が起こらなかったため。映画も前後編で、後編も足を運ぶ必要があることも少しこの映画から足を遠ざける一因となっちたが、やっぱり「せっかくだから」と見にいく。「ジュラシック・ワールド」の余韻がわたしの足を軽くしていたのだ。
冒頭の地響き、降り注ぐガレキによる破壊は王道ともいうべき日本の怪獣映画の展開! 壁の向こうから異形の巨人が姿を見せる辺り外連味タップリの展開。その空けた穴から次々と小型の巨人が壁の中に侵入し・・・噂通り、最初の巨人以外の巨人は限りなく"裸の人間"そのもの。もちろんある程度CG処理を行い、多少人間とは違う部分を用意しているものの、それは原作の漫画より少なく(と、わたしには見えた)、基本人間と言えば人間。それが特に怖がらせようともせず、ただニタニタしながら人間を捕まえて食べるのみだからひたすら不気味。しかもかなり直接に近い映りになっているシーンも少なくない。割と残酷描写表現に抵抗があるイメージがある東宝映画でよくもまぁこれだけやれたものだと感心する。が、迫力ではなくひたすら不気味さを描くこのやり方は、怪獣映画というより妖怪映画である。これもまた当初期待していた物とは違う映画だった。
尾上克郎特撮監督(東宝映画"特撮監督"表記は珍しいが、東映系で仕事を覚えた本人のこだわりだろう)はおそらく巨人の不気味さ、気持ちの悪さを引き出す方針を徹底して貫いている。その最たる物は中盤に登場する巨人の赤ん坊だろう。あの気味の悪さは筆舌に尽くしがたく、今後あれ以上気味の悪いシーンと撮れと言われても無理なんじゃないかと思えるほど。それだけに世間の酷評は分かる。かつて「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」に関して「世間はガイラの気味悪さに自然と嫌悪感を抱き、そのため作品内容に関する正当な評価が出来なくなってしまっているのではないか」と考えたことがあるのだけど、「進撃の巨人」にも同様のものを感じる。本編の怪獣映画的描写を考えると「サンダ対ガイラ」に関する思い出的感想が叩き台の一つになったように思えてならない。ただ、「サンダ対ガイラ」を「フランケンシュタイン対地底怪獣」の完全な続編にしなかったような"やってはいけないこと"のラインは超えてしまった気がする。不気味の極地を狙った「進撃の巨人」が出たことで「サンダ対ガイラ」の評価は変わるかも知れない。
本編の樋口真嗣監督が怪獣映画の影響を受けて映画を作るようになったのは間違いない。それだけに描写の端々に怪獣映画的表現が見え隠れしているが、作品全体としては妖怪であり幻想映画の類。"地に足の付いた"シーンと"ありえない"シーンが絡み合うためにチグハグな印象も受ける物の、一息つくようなシーンのない本作ではそれが適当にメリハリを生むのか、割と退屈せずに最後まで見ることが出来た。途中からは感覚がマヒしてきて巨人の不気味描写も少しどうでもよくなってきた。さすがに大人の巨人がどれだけ出てきても赤ん坊の巨人ほど気味悪くないからというのもある。それだけに最後に登場した異形の巨人は逆にほっとさせられた。明らかに人間でないからである。ここでようやく本編特撮一体となった怪獣映画となるが、高揚感がないのはある意味しょうがない。
二本の映画はどちらも当初考えていたものと違う内容ではあったものの、お互いが逆に相手の映画で見たかった部分を補うような奇妙な関係で両方見るとわたしの中では補間関係になり、充実感を得ることが出来た。「ジュラシック・ワールド」は序盤のヌルい感触を除けば満足感いっぱい、あと何回でもみたい映画だし、子供を連れて行ける映画だと思う。「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」は間違っても映画オタ以外の連れで見に行ける映画ではない。まして子供なんて連れてったら映画そのものを嫌いかねない(笑) ついでにわたしもまた見たいとは思わない。これは狙いとしては間違っているかも知れないが、作りの方向性としては成功しているのでそう考えるのだと思う。でも、後編あるんだよなぁ、一応後の展開気にならないわけではないけど、もう不気味巨人の食人暴れは見なくていいんだよなぁ。最悪どこかで放送されればそれでいいかな?
まずはアメリカ製。恐竜映画の歴史を変えた「ジュラシック・パーク」シリーズ久々の新作、「ジュラシック・ワールド」。第一作に感激した身としては公開中に劇場で見なければなるまい。今回の恐竜の目玉は、コードネーム"バッドボーイ"ことインドミナス・レックス。完全一般公開されたアミューズメントパーク、"ジュラシック・ワールド"内の新しい目玉として今までの恐竜よりも巨大で恐ろしいものをと遺伝子操作で作り上げた新種の恐竜・・・というより人工生物という点でほとんど怪獣である。と言ってもここを揶揄する気はない。そもそも映画「ジュラシック・パーク」では簡単な説明で済まされたが原作小説の「ジュラシック・パーク」では琥珀の化石内に閉じ込められていた蚊から採取した恐竜の遺伝子は完全なものではなく、一部が欠如していたため、コンピュータによって配列パターンを解析して穴埋めを行ったり、意図的に操作して人間から与えられる特定の栄養素を定期的に摂取しながらでないと生きられない体となっていた~もちろん逃走対策のため~生物だったのだ。つまり第一作の時点で本シリーズに登場する恐竜は全て人工的に手を加えられたハイブリッドであり、インドミナス・レックスのみが特別な存在というわけではない。少なくとも第二・三作目のようになぜか新種が次々と登場するより説得力のある描写ではある。恐竜を作り上げた本来の目的であるアミューズメントパーク設立といい遺伝子操作に対する取り組みといい、間が空いたことで第一作の原点にある程度帰って作り直そうとした感はある。
序盤はその恐竜パークの様子が楽しそうに表現され、進歩したCGIで描かれた恐竜や魚竜が人々を驚かせる。だが、長い時間はCGI技術を進歩させた以上にわたしら視聴者の目をCGIに慣れさせた。確かに昔のストップモーション・アニメで表現され、フィルムの重ね合わせで合成された恐竜と比べれば臨場感はケタ違い。だが、それを見抜く目をもうわたしらは持っている。なまじっか本物に近づけただけに違和感はかえって浮き彫りになり、CG臭い動きや表面処理になんとなくザワザワする・第一作はCGI表現ばかり言われるが、実は恐竜の大半はアニマトロニクス、つまりロボットで描かれていてCGIの利用は思ったよりも少ない。第一作のすごさはまだまだ未成熟だったCGIと熟練した技術であるアニマトロニクスを区別する隙を与えない卓越した演出と編集技術にあった、とわたしは思っている。多分当初予定されていたストップモーション・アニメの最終形態とも言うべきゴー・モーションを使っても同じくらい面白い映画は撮れたと思う。ただ映画の歴史を変えた作品とは評されず、今回の第4作は作られなかったとも思うので、結果CGI映画として広まったのは良かったことだろう。一方本作は進歩したCGIだらけ。モササウルスなどはそりゃCGIで無ければ難しいのであれはいいと思う(デカ過ぎるけど)が、轡をかまされ、人になでられるラプトルまでCGIだったのは閉口。ケチケチせずにアニマトロニクス使えよ、とか余計なことを考えてしまう。アニマトロニクスが効果的に使われたのは死にかけたアパトサウルスくらい? 家族問題とかの本編ストーリーも無理矢理付けた感があり、序盤は全体的に退屈。一瞬意識を失ったほど。さらにインドミナス・レックスの逃亡を許す過程がちょっと酷い。たかが壁に爪痕がついていたくらいで壁を乗り越えて逃亡した、を大前提に行動するのがちょっと信じられない。ここら辺の描写が全体を通して気に入らず、まぁそれほど期待してなかったのでこんなものか、感が頭を支配。
ただ、そういうヌルい展開でなくても良くなった、人間特に兄弟の出番が第三者的になっていってからは急展開、インドミナス・レックスとそれを止めんとする警備隊の壮絶なバトルというシンプルな内容となってからは逆に退屈する暇を与えない怒濤の描写になっていく。こういう展開となればもうCGIだろうとアニマトロニクスだろうと関係なし。最強の恐竜を目指して造られたインドミナス・レックスはひたすら強くて残虐、他の恐竜も思わせぶりな兵器を繰り出してくる人間たちも次々となぎ倒していく様は、従来シリーズのパニック描写とは全く異なる展開。ある意味「GODZILLA(2014)」以上に弱く相手にたたきのめされる人間ですが、米軍ではなく私設の警備隊のようですから弱くてOKなんでしょう。とうとう打つ手がなくなった時、主人公たちが選んだ最後の策・・・。痺れた。全身から何かが出てきた。まさかジュラシックシリーズで第一作のブラキオサウルス登場シーンと同じ感激を本作で味わい、涙が出てくるなんて冒頭の退屈さからは想像もしてなかった。この映画は第一作に戻そうとする空気はあるものの、当時は最新の恐竜研究に基づいて再現しようとしていたのに対し、羽毛恐竜が全く出ていない点(特にラプトルの羽毛の存在はかなり有力と見られているはず)や翼竜が鳥のように自由に羽ばたいて空を飛んでいるなど、あまり格好良くなくなった現在のそれではなく格好いい昔の恐竜の姿を優先するあたり恐竜映画としては下、ただし怪獣映画としては極上、間違いなく頭でアメリカの怪獣を理解し、心に日本の怪獣を宿した人間の仕事だった。恐竜やハイブリッド種を兵器として利用しようとする組織が暗躍するという如何にもアメリカ製怪獣ものの空気を漂わせながら、最後に最強の助っ人がまさかの共闘態勢で強大な敵に立ち向かう完全なる日本の怪獣映画描写。それは「パシフィック・リム」や「GODZILLA(2014)」が「日本の怪獣映画の影響を受けて作られた」と宣伝されなからも結局は表面的な真似事でしかなかった居心地の悪さとは異質の、本質的な影響を感じる。そもそもインドミナス・レックスが映像の中で最初に襲いかかり、それに防戦する様子を描いた最初の恐竜はアンキロサウルスなのだ。これはアンキロサウルスをモデルにして怪獣化したアンギラスと戦う「ゴジラの逆襲」へのオマージュを通じたゴジラ作品を初めとする日本怪獣全体への愛の表現に見えた、見えたというより断言したいくらいだ。最初に思っていた物とは大分違う映画ではあったが久々にハリウッド系で大満足の怪獣ものをみれた高揚感は言うこと無しだった。
一方この夏の日本の怪獣映画と言えば「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」(以下ATTACK ON TITAN省略)。巨人が人間そのもの過ぎて嘲笑の対象とされ、非難側に回る方が勝ち組の空気すらあることはネットでみていた。進撃の巨人の映画を検索かけるとそれと「ブチ切れ」と評されるスタッフの対応ばかり出てくるくらい。まぁその手の話はおいておくとして、樋口真嗣監督と言えば2016年の新作ゴジラ監督になっている人物。次の怪獣映画を作る人間として、今はどういう映画を作ってくるか見ておきたい。なお、わたしは原作やアニメの「進撃の巨人」を最初の一話くらいしか見ておらず、ストーリーとかほとんど知らない。最初の巨人が人間を喰いまくる描写だけでお腹いっぱいになった感じでそれ以上観る気が起こらなかったため。映画も前後編で、後編も足を運ぶ必要があることも少しこの映画から足を遠ざける一因となっちたが、やっぱり「せっかくだから」と見にいく。「ジュラシック・ワールド」の余韻がわたしの足を軽くしていたのだ。
冒頭の地響き、降り注ぐガレキによる破壊は王道ともいうべき日本の怪獣映画の展開! 壁の向こうから異形の巨人が姿を見せる辺り外連味タップリの展開。その空けた穴から次々と小型の巨人が壁の中に侵入し・・・噂通り、最初の巨人以外の巨人は限りなく"裸の人間"そのもの。もちろんある程度CG処理を行い、多少人間とは違う部分を用意しているものの、それは原作の漫画より少なく(と、わたしには見えた)、基本人間と言えば人間。それが特に怖がらせようともせず、ただニタニタしながら人間を捕まえて食べるのみだからひたすら不気味。しかもかなり直接に近い映りになっているシーンも少なくない。割と残酷描写表現に抵抗があるイメージがある東宝映画でよくもまぁこれだけやれたものだと感心する。が、迫力ではなくひたすら不気味さを描くこのやり方は、怪獣映画というより妖怪映画である。これもまた当初期待していた物とは違う映画だった。
尾上克郎特撮監督(東宝映画"特撮監督"表記は珍しいが、東映系で仕事を覚えた本人のこだわりだろう)はおそらく巨人の不気味さ、気持ちの悪さを引き出す方針を徹底して貫いている。その最たる物は中盤に登場する巨人の赤ん坊だろう。あの気味の悪さは筆舌に尽くしがたく、今後あれ以上気味の悪いシーンと撮れと言われても無理なんじゃないかと思えるほど。それだけに世間の酷評は分かる。かつて「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」に関して「世間はガイラの気味悪さに自然と嫌悪感を抱き、そのため作品内容に関する正当な評価が出来なくなってしまっているのではないか」と考えたことがあるのだけど、「進撃の巨人」にも同様のものを感じる。本編の怪獣映画的描写を考えると「サンダ対ガイラ」に関する思い出的感想が叩き台の一つになったように思えてならない。ただ、「サンダ対ガイラ」を「フランケンシュタイン対地底怪獣」の完全な続編にしなかったような"やってはいけないこと"のラインは超えてしまった気がする。不気味の極地を狙った「進撃の巨人」が出たことで「サンダ対ガイラ」の評価は変わるかも知れない。
本編の樋口真嗣監督が怪獣映画の影響を受けて映画を作るようになったのは間違いない。それだけに描写の端々に怪獣映画的表現が見え隠れしているが、作品全体としては妖怪であり幻想映画の類。"地に足の付いた"シーンと"ありえない"シーンが絡み合うためにチグハグな印象も受ける物の、一息つくようなシーンのない本作ではそれが適当にメリハリを生むのか、割と退屈せずに最後まで見ることが出来た。途中からは感覚がマヒしてきて巨人の不気味描写も少しどうでもよくなってきた。さすがに大人の巨人がどれだけ出てきても赤ん坊の巨人ほど気味悪くないからというのもある。それだけに最後に登場した異形の巨人は逆にほっとさせられた。明らかに人間でないからである。ここでようやく本編特撮一体となった怪獣映画となるが、高揚感がないのはある意味しょうがない。
二本の映画はどちらも当初考えていたものと違う内容ではあったものの、お互いが逆に相手の映画で見たかった部分を補うような奇妙な関係で両方見るとわたしの中では補間関係になり、充実感を得ることが出来た。「ジュラシック・ワールド」は序盤のヌルい感触を除けば満足感いっぱい、あと何回でもみたい映画だし、子供を連れて行ける映画だと思う。「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」は間違っても映画オタ以外の連れで見に行ける映画ではない。まして子供なんて連れてったら映画そのものを嫌いかねない(笑) ついでにわたしもまた見たいとは思わない。これは狙いとしては間違っているかも知れないが、作りの方向性としては成功しているのでそう考えるのだと思う。でも、後編あるんだよなぁ、一応後の展開気にならないわけではないけど、もう不気味巨人の食人暴れは見なくていいんだよなぁ。最悪どこかで放送されればそれでいいかな?