映画のヒットによって原作のイメージとかけ離れてしまったものになった怪物の代表格と言えば「フランケンシュタイン」の怪物だが、あそこまで大きくはないにしても、やはり映画以降キャラクターが変わってしまった怪物がいる。吸血鬼ドラキュラである。
一般に吸血鬼ドラキュラのイメージと言えば「タキシードの上からマントを羽織り、普段は割と紳士的でハンサム。だがするどくとがった犬歯を持っており、それを主に美女の首筋に挿して血を吸う。血を吸われた相手は支配下に置かれると同時に吸血鬼へと変貌する。コウモリに変身し、魔力を絶たれない限り不老不死。昼はカンオケの中で眠る。ただし弱点は多く、もっと苦手なのは太陽の光、他に十字架とニンニク。殺すには心臓に杭を打ち込むか、銀の武器で攻撃する」というものだと思う。これらのイメージが作られたのは、初めて"ドラキュラ"の名を関して作られた1931年の映画、「魔人ドラキュラ」に主演したベラ・ルゴシの影響が大きい。ただ、それ以前に舞台劇でも「ドラキュラ」は多く上演されていて、見た目のイメージに関して言えばそっちの都合が大きいようである。例えば、まとっているマントは仕掛けを隠すために着ていたのだそうだ。ベラ・ルゴシは舞台劇でもドラキュラをたびたび演じている。
「魔人ドラキュラ」のドラキュラはコウモリの他、オオカミにも変身(ただしそういうセリフと遠吠えがあるのみ)する。十字架を嫌い、鏡に姿が映らない。ニンニク設定はまだないがトリカブトのにおいを嫌う似たような弱点はすでにある。眼力だけで人を操り、自身の血を飲ませることで絶対服従の下僕へと変える。血を受け入れた人間はドラキュラある限り不老不死となる。ドラキュラの吸血によってほとんどの犠牲者は死亡しているが、稀に蘇るケースがあり、そのものは新たな吸血鬼となった。
この段階で現在のイメージの原形はほとんど出来上がっているが、まだ吸血行為はあくまで食事であり、のちの作品のような吸血鬼を増やすことを目的とした吸血は行っていない。
おなじみのカンオケで昼間眠る(と、いうより活動を停止する)シーンもあるが、実はドラキュラにとってカンオケという道具にはあまり意味がない。大事なのは魔力の維持のために故郷トランシルバニアの土の上で眠ることであり、作中のカンオケはそれが詰まっている寝床でしかない。ドラキュラ本人からみたカンオケの意味は単に土を詰めたままで運びやすくて引っ越しの時に便利だからというだけのものである。ただ、昔からヨーロッパ各地に存在する吸血鬼伝説の中にそういった設定とは関係なくカンオケから目覚めるというものがあったようだ。これは吸血鬼とは甦った死者であるからだと思われる。死んでいながら存在し活動するために他人の命(=生血)を吸収する必要があるのだ。「土の魔力」はドラキュラが覚醒と睡眠を繰り返すための理由付けでしかない。
「魔人ドラキュラ」の時点でははっきりしなかった吸血によって吸血能力が伝染する設定はのちの作品によって次第に明確になっていく。が、その結果狼男の設定と似通ったものとなってしまった。特定の原作を持たず、1941年の映画「THE WOLFMAN(狼男)」で基本的な設定が確立した狼男は、最初から吸血ならぬ噛みつき行為によって狼男に変身する呪いを伝染させていった。映画の中で最初に登場し、主人公ローレンスに呪いを伝染させた狼男はほぼ完全な狼(厳密には犬。ローレンス役ロン・チェイニー・ジュニアの飼い犬が使われた)の姿になっていた。しかも、その人間時の姿を演じたのは先の「魔人ドラキュラ」のドラキュラ役、ベラ・ルゴシである。つまり、狼男は吸血鬼の能力の一部だけが伝染した吸血鬼のなりそこない、と考えた方がスッキリしてしまうのだ。それほど両者の能力の境はあいまいに見える。
吸血鬼の能力
・絶大な魔力。コウモリ・オオカミに自在に変身し、自由に行動できる。他人を眼力だけで操る力・絶対服従のしもべに変える力・吸血鬼を伝染させる力などを持つ
・魔力生命維持のために吸血を行う。その際他人に吸血能力を伝染させたうえでしもべに変える
・昼はトランシルバニアの土が詰まっているカンオケで眠る。土に関係なく寝床をカンオケにするだけのものもいる
・あまり描写はないが、鉄の棒を素手で曲げるなど人間をはるかに超える力を持つ
・魔力が絶えない限り不老不死であり、通常の攻撃は通用しない。その割に弱点が多く、日光・十字架・ニンニクのにおいなどが有名。ただ、それらでも魔力を完全に絶つことはできない場合が多く、絶命には心臓に杭を打ち込むか銀の武器を使うなどしてトドメを挿す必要があるが、その場合でも条件次第でよみがえる。死んだまま存在しているので鏡や水面に姿が映らない
狼男の能力(筆者考察込)
・魔力が弱いため、満月の光の力を借りなければ変身できない。変身できるのは狼のみ。多くのものは変身が中途半端で、狼と人間の中間的な姿にとどまる
・変身は自分の意思で行えず、精神も凶暴な獣のそれになってしまう。変身中の記憶は人間に戻ると忘れてしまう場合が多い
・獣の衝動で人を襲う。襲われたものは噛みつかれて生き残った場合、呪いが感染して狼男になってしまうことがある。他の影響を人間に与える力は無い
・昼間の行動に支障はなく、多少日光が苦手になるものもいるが普通に生活できる。他はせいぜい食事の好みが変わる程度
・狼の凶暴性と瞬発力に牙と爪・人間の頭脳と格闘能力という両者のいいところどりで格闘は滅法強い
・原則不死身に近く、通常の攻撃は効果が薄い。弱点は吸血鬼と比べて少なく、銀の武器によってのみ死亡する。が、条件次第でよみがえってしまう
ただ狼男はむしろ生命力に溢れていて、吸血鬼のような生きた死人というイメージはない。なりそこないというより死ななかったために弱い魔力しか持てなかった吸血鬼とみるべきかも知れない。
その後作られたほとんどの吸血鬼ドラキュラが登場する映画は、これら魔人ドラキュラ以降の設定が受け継がれた。ドラキュラが「フランケンシュタイン」と異なるのは、原作にある程度忠実な映画をが別に存在したために「ドラキュラ」の名で作るのが難しいという特別な事情があったことにある。それが「吸血鬼ノスフェラトゥ」だ。
吸血鬼ノスフェラトゥ 新訳版 [DVD]マックス・シュレック,アレクサンダー・グラナック有限会社フォワード
「吸血鬼ノスフェラトゥ」は「魔人ドラキュラ」以前の1922年にドイツで作られたサイレント映画だ。ただ、「ドラキュラ」の原作者、ブラム・ストーカー遺族の許可が得られなかった。が、主人公の名を"ドラキュラ"から"オルロック"に変えただけで強硬製作されてしまったのだ。名を変えたと言ってもサイレント映画なのでそもそも映画内で名を呼ばれたりしないので、字幕次第でどうにでもなる。実際上記のDVD冒頭の登場人物紹介には思いっきり「Count Dracula(ドラキュラ伯爵)」と入っている。のちに著作権者との間で裁判が行われ、フィルムの破棄が命じられた。が、あまりにヒットしたために世界中にプリントフィルムが残ってしまった。この版は状態としては良い方ではないようだが、気軽に見ることができる。
外見は紳士然としたドラキュラとは全く異なる。痩せこけた老人のような見た目で、目はくぼみ、耳は大きくとがり、歯は犬歯の代わりに前歯が大きいネズミを思わせる外見。身長は高いがあきらかに不自然な体格、あり得ない関節の位置、生命感のない歩き方。異様な長さの指。どれをとっても人間離れしていて怪物以外の何物でもなく、前半部分で仕事とはいえ、まじめに話を行っているジョナサンの気がしれない。そして、こちらの方が原作小説のイメージに近いのである。その姿と描写はボロボロの画質も手伝っているだろうが(おそらくなんらかのメイクはしたであろう)粗が全く分からない。不気味の一言である。
ノスフェラトゥに吸血の伝染能力があるかどうかははっきりしない。吸血衝動を起こす人物は登場するが、関連性が不明なのである。代わりにノスフェラトゥはネズミを操り、ペストを蔓延させ、多くの人々に死をもたらす。これは後のドラキュラ映画には全く見られない表現だ。むしろペストがもたらした死のために街中から墓地に運び込まれる棺の一群、という「吸血鬼ノスフェラトゥ」で描かれた生々しく恐ろしい描写を避けるため、ドラキュラでは代わりに吸血の伝染という別の表現を用いたと考える方が正しいと思う。
先の「魔人ドラキュラ」は当時はホラー映画として作られた。だが現代人が見て怖がれ、というのはさすがに無理である。が、「吸血鬼ノスフェラトゥ」はサイレント映画特有のトリップ感もあって今見ても怖さを感じてしまう。と、言っても「怖い」より「驚かされる」ホラー映画が主流な現代をを基準に考えると事前の期待ほどではないが、少なくとも「怖く作ってある」のは十分理解できる。現代人の目で見ても怖さを感じるということは、90年も前の当時としては常軌を逸した恐ろしさであったということだ。失神した観客もいたという伝説が残っているほどである。なお、登場人物としてのノスフェラトゥ(オルロックという本名よりこっちの方がはるかに通りがいいのでこう呼ぶ)を演じたのはマックス・シュレックという人物だが、その名を直訳すれば「最大の恐怖」となり、芸名だとしても人間につける名とは思えない。そのため本物の吸血鬼が演じているのではないか、というジョークがささやかれた。その噂を基にした「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」という映画も2000年に作られている。
「吸血鬼ノスフェラトゥ」の存在感は圧倒的だった。「魔人ドラキュラ」もその影響力を逃れることが出来ず、劇中で「悪魔」「不死」の意味で"ノスフェラトゥ"というセリフが使われているほど。ただ、それ以降はむしろノスフェラトゥは避けられていたように思う。大量に作られたモンスター映画が欲しかったのは"魔人ドラキュラ"のドラキュラであり、原作のドラキュラではなかったからだろう。その結果、ドラキュラの名はいじくり回されてすっかり手垢が付いてしまい、こんにち映画でもゲームでも"ドラキュラ"の名を積極的に使おうというクリエイターはあまりいない。ドラキュラがその汚れ役・受け皿となったおかげでノスフェラトゥはいじられることなくそのまま残った。むしろ現代のゲームにおいて「不死」「吸血鬼」の力を持つ、本来のドラキュラのような不気味なキャラクターとして”ノスフェラトゥ"の名が使われるくらいである。無断で作った映画のおかげで時代に流されることなく保護され続けた、と見るのはうがった見方だろうか。
先日、その「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクとして1978年に作られた映画「ノスフェラトゥ」のHDリマスター版BDとDVDが発売された。昨年の年末に発売されたボックスに収録されたものと同じ映像だが、見たいのがこの「ノスフェラトゥ」だけだったので単品販売を待っていたものである。
ノスフェラトゥ Blu-rayクラウス・キンスキー,イザベル・アジャーニ,ブルーノ・ガンツ紀伊國屋書店
内容も怪物のデザインも「吸血鬼ノスフェラトゥ」に近く、あえてそのまま再現した映像カットも数多く使われているが、吸血鬼の名がドラキュラとなっているなど相違もあり原作ドラキュラの映画化の面も持つ。
ホラー映画としての恐ろしさという面で本作は旧作に劣る。本作の醍醐味は醜い怪物が美女にせまる、「美女と野獣」の側面を強めたことにある。旧作では全てを知りながらもノスフェラトゥへの恐怖に怯える面が強かったヒロインが、本作(なぜか名前が変更)では吸血鬼が目の前に現れても堂々と立ち振る舞い、女を武器に戦いを挑む気丈な性格として描かれている。ヒロインに迫るノスフェラトゥの行動は美女を襲う怪物というより求愛行為であり、夜這いである。だからこそ感じられるエロティシズムが美しい。ヘタに怖がらせようとせずに美に徹することで旧作のイメージを大事にした非常に満足度の高いリメイクとなっている。
個人的に強いて不満を言うのなら、珍しくもヴァン・ヘルシングが頼りにならないことくらい。今でこそドラキュラハンターとしてその名を轟かせるヴァン・ヘルシングだが、本来はただ知識があるだけの老教授に過ぎない。それでも「吸血鬼ノスフェラトゥ」ではヒロインに助言を与える頼りになる人物として、「魔人ドラキュラ」ではその知識によってドラキュラを追い詰める強敵として描かれた。「魔人ドラキュラ」での両者のにらみ合いは微妙にかみ合っていない会話もあって"お互いを相容れない"意志をむき出しにする迫力に満ちている。対する本作では常識の通用しない吸血鬼のもたらす現象に、「科学的にあり得ない」とオタオタする扱い。本作で吸血鬼と戦うのはあくまでヒロインであるので、ハンターは二人いらないということなのだろうか。
サレント映画と違ってセリフもあるので話が分かりやすい、その分ノスフェラトゥの不気味さは弱まったが。旧作→本作と見た後にまた旧作を見直すといろいろ興味深く見ることが出来る。
一般に吸血鬼ドラキュラのイメージと言えば「タキシードの上からマントを羽織り、普段は割と紳士的でハンサム。だがするどくとがった犬歯を持っており、それを主に美女の首筋に挿して血を吸う。血を吸われた相手は支配下に置かれると同時に吸血鬼へと変貌する。コウモリに変身し、魔力を絶たれない限り不老不死。昼はカンオケの中で眠る。ただし弱点は多く、もっと苦手なのは太陽の光、他に十字架とニンニク。殺すには心臓に杭を打ち込むか、銀の武器で攻撃する」というものだと思う。これらのイメージが作られたのは、初めて"ドラキュラ"の名を関して作られた1931年の映画、「魔人ドラキュラ」に主演したベラ・ルゴシの影響が大きい。ただ、それ以前に舞台劇でも「ドラキュラ」は多く上演されていて、見た目のイメージに関して言えばそっちの都合が大きいようである。例えば、まとっているマントは仕掛けを隠すために着ていたのだそうだ。ベラ・ルゴシは舞台劇でもドラキュラをたびたび演じている。
「魔人ドラキュラ」のドラキュラはコウモリの他、オオカミにも変身(ただしそういうセリフと遠吠えがあるのみ)する。十字架を嫌い、鏡に姿が映らない。ニンニク設定はまだないがトリカブトのにおいを嫌う似たような弱点はすでにある。眼力だけで人を操り、自身の血を飲ませることで絶対服従の下僕へと変える。血を受け入れた人間はドラキュラある限り不老不死となる。ドラキュラの吸血によってほとんどの犠牲者は死亡しているが、稀に蘇るケースがあり、そのものは新たな吸血鬼となった。
この段階で現在のイメージの原形はほとんど出来上がっているが、まだ吸血行為はあくまで食事であり、のちの作品のような吸血鬼を増やすことを目的とした吸血は行っていない。
おなじみのカンオケで昼間眠る(と、いうより活動を停止する)シーンもあるが、実はドラキュラにとってカンオケという道具にはあまり意味がない。大事なのは魔力の維持のために故郷トランシルバニアの土の上で眠ることであり、作中のカンオケはそれが詰まっている寝床でしかない。ドラキュラ本人からみたカンオケの意味は単に土を詰めたままで運びやすくて引っ越しの時に便利だからというだけのものである。ただ、昔からヨーロッパ各地に存在する吸血鬼伝説の中にそういった設定とは関係なくカンオケから目覚めるというものがあったようだ。これは吸血鬼とは甦った死者であるからだと思われる。死んでいながら存在し活動するために他人の命(=生血)を吸収する必要があるのだ。「土の魔力」はドラキュラが覚醒と睡眠を繰り返すための理由付けでしかない。
「魔人ドラキュラ」の時点でははっきりしなかった吸血によって吸血能力が伝染する設定はのちの作品によって次第に明確になっていく。が、その結果狼男の設定と似通ったものとなってしまった。特定の原作を持たず、1941年の映画「THE WOLFMAN(狼男)」で基本的な設定が確立した狼男は、最初から吸血ならぬ噛みつき行為によって狼男に変身する呪いを伝染させていった。映画の中で最初に登場し、主人公ローレンスに呪いを伝染させた狼男はほぼ完全な狼(厳密には犬。ローレンス役ロン・チェイニー・ジュニアの飼い犬が使われた)の姿になっていた。しかも、その人間時の姿を演じたのは先の「魔人ドラキュラ」のドラキュラ役、ベラ・ルゴシである。つまり、狼男は吸血鬼の能力の一部だけが伝染した吸血鬼のなりそこない、と考えた方がスッキリしてしまうのだ。それほど両者の能力の境はあいまいに見える。
吸血鬼の能力
・絶大な魔力。コウモリ・オオカミに自在に変身し、自由に行動できる。他人を眼力だけで操る力・絶対服従のしもべに変える力・吸血鬼を伝染させる力などを持つ
・魔力生命維持のために吸血を行う。その際他人に吸血能力を伝染させたうえでしもべに変える
・昼はトランシルバニアの土が詰まっているカンオケで眠る。土に関係なく寝床をカンオケにするだけのものもいる
・あまり描写はないが、鉄の棒を素手で曲げるなど人間をはるかに超える力を持つ
・魔力が絶えない限り不老不死であり、通常の攻撃は通用しない。その割に弱点が多く、日光・十字架・ニンニクのにおいなどが有名。ただ、それらでも魔力を完全に絶つことはできない場合が多く、絶命には心臓に杭を打ち込むか銀の武器を使うなどしてトドメを挿す必要があるが、その場合でも条件次第でよみがえる。死んだまま存在しているので鏡や水面に姿が映らない
狼男の能力(筆者考察込)
・魔力が弱いため、満月の光の力を借りなければ変身できない。変身できるのは狼のみ。多くのものは変身が中途半端で、狼と人間の中間的な姿にとどまる
・変身は自分の意思で行えず、精神も凶暴な獣のそれになってしまう。変身中の記憶は人間に戻ると忘れてしまう場合が多い
・獣の衝動で人を襲う。襲われたものは噛みつかれて生き残った場合、呪いが感染して狼男になってしまうことがある。他の影響を人間に与える力は無い
・昼間の行動に支障はなく、多少日光が苦手になるものもいるが普通に生活できる。他はせいぜい食事の好みが変わる程度
・狼の凶暴性と瞬発力に牙と爪・人間の頭脳と格闘能力という両者のいいところどりで格闘は滅法強い
・原則不死身に近く、通常の攻撃は効果が薄い。弱点は吸血鬼と比べて少なく、銀の武器によってのみ死亡する。が、条件次第でよみがえってしまう
ただ狼男はむしろ生命力に溢れていて、吸血鬼のような生きた死人というイメージはない。なりそこないというより死ななかったために弱い魔力しか持てなかった吸血鬼とみるべきかも知れない。
その後作られたほとんどの吸血鬼ドラキュラが登場する映画は、これら魔人ドラキュラ以降の設定が受け継がれた。ドラキュラが「フランケンシュタイン」と異なるのは、原作にある程度忠実な映画をが別に存在したために「ドラキュラ」の名で作るのが難しいという特別な事情があったことにある。それが「吸血鬼ノスフェラトゥ」だ。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」は「魔人ドラキュラ」以前の1922年にドイツで作られたサイレント映画だ。ただ、「ドラキュラ」の原作者、ブラム・ストーカー遺族の許可が得られなかった。が、主人公の名を"ドラキュラ"から"オルロック"に変えただけで強硬製作されてしまったのだ。名を変えたと言ってもサイレント映画なのでそもそも映画内で名を呼ばれたりしないので、字幕次第でどうにでもなる。実際上記のDVD冒頭の登場人物紹介には思いっきり「Count Dracula(ドラキュラ伯爵)」と入っている。のちに著作権者との間で裁判が行われ、フィルムの破棄が命じられた。が、あまりにヒットしたために世界中にプリントフィルムが残ってしまった。この版は状態としては良い方ではないようだが、気軽に見ることができる。
外見は紳士然としたドラキュラとは全く異なる。痩せこけた老人のような見た目で、目はくぼみ、耳は大きくとがり、歯は犬歯の代わりに前歯が大きいネズミを思わせる外見。身長は高いがあきらかに不自然な体格、あり得ない関節の位置、生命感のない歩き方。異様な長さの指。どれをとっても人間離れしていて怪物以外の何物でもなく、前半部分で仕事とはいえ、まじめに話を行っているジョナサンの気がしれない。そして、こちらの方が原作小説のイメージに近いのである。その姿と描写はボロボロの画質も手伝っているだろうが(おそらくなんらかのメイクはしたであろう)粗が全く分からない。不気味の一言である。
ノスフェラトゥに吸血の伝染能力があるかどうかははっきりしない。吸血衝動を起こす人物は登場するが、関連性が不明なのである。代わりにノスフェラトゥはネズミを操り、ペストを蔓延させ、多くの人々に死をもたらす。これは後のドラキュラ映画には全く見られない表現だ。むしろペストがもたらした死のために街中から墓地に運び込まれる棺の一群、という「吸血鬼ノスフェラトゥ」で描かれた生々しく恐ろしい描写を避けるため、ドラキュラでは代わりに吸血の伝染という別の表現を用いたと考える方が正しいと思う。
先の「魔人ドラキュラ」は当時はホラー映画として作られた。だが現代人が見て怖がれ、というのはさすがに無理である。が、「吸血鬼ノスフェラトゥ」はサイレント映画特有のトリップ感もあって今見ても怖さを感じてしまう。と、言っても「怖い」より「驚かされる」ホラー映画が主流な現代をを基準に考えると事前の期待ほどではないが、少なくとも「怖く作ってある」のは十分理解できる。現代人の目で見ても怖さを感じるということは、90年も前の当時としては常軌を逸した恐ろしさであったということだ。失神した観客もいたという伝説が残っているほどである。なお、登場人物としてのノスフェラトゥ(オルロックという本名よりこっちの方がはるかに通りがいいのでこう呼ぶ)を演じたのはマックス・シュレックという人物だが、その名を直訳すれば「最大の恐怖」となり、芸名だとしても人間につける名とは思えない。そのため本物の吸血鬼が演じているのではないか、というジョークがささやかれた。その噂を基にした「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」という映画も2000年に作られている。
「吸血鬼ノスフェラトゥ」の存在感は圧倒的だった。「魔人ドラキュラ」もその影響力を逃れることが出来ず、劇中で「悪魔」「不死」の意味で"ノスフェラトゥ"というセリフが使われているほど。ただ、それ以降はむしろノスフェラトゥは避けられていたように思う。大量に作られたモンスター映画が欲しかったのは"魔人ドラキュラ"のドラキュラであり、原作のドラキュラではなかったからだろう。その結果、ドラキュラの名はいじくり回されてすっかり手垢が付いてしまい、こんにち映画でもゲームでも"ドラキュラ"の名を積極的に使おうというクリエイターはあまりいない。ドラキュラがその汚れ役・受け皿となったおかげでノスフェラトゥはいじられることなくそのまま残った。むしろ現代のゲームにおいて「不死」「吸血鬼」の力を持つ、本来のドラキュラのような不気味なキャラクターとして”ノスフェラトゥ"の名が使われるくらいである。無断で作った映画のおかげで時代に流されることなく保護され続けた、と見るのはうがった見方だろうか。
先日、その「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクとして1978年に作られた映画「ノスフェラトゥ」のHDリマスター版BDとDVDが発売された。昨年の年末に発売されたボックスに収録されたものと同じ映像だが、見たいのがこの「ノスフェラトゥ」だけだったので単品販売を待っていたものである。

内容も怪物のデザインも「吸血鬼ノスフェラトゥ」に近く、あえてそのまま再現した映像カットも数多く使われているが、吸血鬼の名がドラキュラとなっているなど相違もあり原作ドラキュラの映画化の面も持つ。
ホラー映画としての恐ろしさという面で本作は旧作に劣る。本作の醍醐味は醜い怪物が美女にせまる、「美女と野獣」の側面を強めたことにある。旧作では全てを知りながらもノスフェラトゥへの恐怖に怯える面が強かったヒロインが、本作(なぜか名前が変更)では吸血鬼が目の前に現れても堂々と立ち振る舞い、女を武器に戦いを挑む気丈な性格として描かれている。ヒロインに迫るノスフェラトゥの行動は美女を襲う怪物というより求愛行為であり、夜這いである。だからこそ感じられるエロティシズムが美しい。ヘタに怖がらせようとせずに美に徹することで旧作のイメージを大事にした非常に満足度の高いリメイクとなっている。
個人的に強いて不満を言うのなら、珍しくもヴァン・ヘルシングが頼りにならないことくらい。今でこそドラキュラハンターとしてその名を轟かせるヴァン・ヘルシングだが、本来はただ知識があるだけの老教授に過ぎない。それでも「吸血鬼ノスフェラトゥ」ではヒロインに助言を与える頼りになる人物として、「魔人ドラキュラ」ではその知識によってドラキュラを追い詰める強敵として描かれた。「魔人ドラキュラ」での両者のにらみ合いは微妙にかみ合っていない会話もあって"お互いを相容れない"意志をむき出しにする迫力に満ちている。対する本作では常識の通用しない吸血鬼のもたらす現象に、「科学的にあり得ない」とオタオタする扱い。本作で吸血鬼と戦うのはあくまでヒロインであるので、ハンターは二人いらないということなのだろうか。
サレント映画と違ってセリフもあるので話が分かりやすい、その分ノスフェラトゥの不気味さは弱まったが。旧作→本作と見た後にまた旧作を見直すといろいろ興味深く見ることが出来る。