日本映画専門チャンネルのサイトで実施されていたゴジラ総選挙。28作のうち最終決戦に残った4作が発表された模様。
第一次投票〜あなたが選ぶ!ベスト・オブ・ゴジラ〜|日本映画専門チャンネル
見事初期作品とVSシリーズに真っ二つ。わたしもVS世代なのでこの結果は嬉しい。24時を経過するごとに一回という形なら再投票が何度でも可能みたいなので、今度は東京しようかな? 一次投票のときは一作だけ選ぶというのは他の27作を見捨てるに等しい感触だったので投票しなかったんだけど、今度は投票しようかな? 全作品に(笑)
今回はは特撮ヲタ全開の考察記事。
配給会社の名前から一部ですでに"レジェゴジ"の略称も使われているアメリカ版新作「GODZILLA」(ちなみに1998年版は"トラゴジ")の公開がようやく目の前に迫ってきた。テレビはもちろん一般の雑誌や新聞にも"ゴジラ完全復活"などの見出しで取り上げられ、大きな話題となっているように見える。今まで日本のゴジラが復活しようとも目もくれなかったメディアがアメリカでやるとなった途端急に扱いが大きくなって「日本人総ゴジラファン」のように書くさまは、"ゴジラ復活"を願って尽力し、レジェゴジでもプロデューサーの一人として名を連ねている坂野義光氏(映画「ゴジラ対ヘドラ」の監督としても有名)の努力によるものであると分かっていても、一日本怪獣映画ファンとしてはやはりくやしいとも思うし、メディアの取り上げ方にもう一つ気にいらなさも感じる。
中でも第一作の扱いが、「反戦・反核のメッセージを込めた映画」扱いになっていることだ。これは大変遺憾。1954年度映画「ゴジラ」はそんな説教くさいメッセージ映画ではない、ガチな娯楽作品なのだ。このままでは「ゴジラ」は普通の人にとって視聴に抵抗のある、敷居の高い芸術作品になってしまう。それには抵抗したい。そこで今回は考察の名のもと、そういう勝手に「ゴジラ」をまつりあげようとする風潮の話の腰を折るエントリーを書きたいと思う。内容を知って言うことを前提に書いているので未見の人は何書いているか分からないだろうが勘弁。ゴジラの見方は一つではないということが本項のテーマだ。
なお、特撮に関しては前にも書いているので取り上げない。なにより劇場で見上げるような姿勢で大スクリーンを見るのと家のテレビやPC、まして見下ろす形で利用するノートPCでのDVDか何かで見る特撮映像ではそれだけで迫力が天と地の差になるからだ。くれぐれも劇場で見たハリウッド作品とノーパソでみた日本特撮を印象で比較して「アメリカのCGの方がずっと迫力がある」と評するようなマネはしないで欲しい。
映画の内容からは外れるが、まず「反戦」はそもそもあり得ない。今でこそ戦争映画と言えばみじめに日本軍が惨敗する悲劇の映画しか作られなくなっているが、まだまだ当時は日本軍の勝利を描いた戦争映画がいくつも作られていた時代だ。戦闘はやや縁遠くなったが故にエンターテインメントとして描かれ、かっこいい軍艦や戦闘機は憧れの存在だ。「ゴジラ」のターゲットはそういう人に近く、反戦という言葉を意識して作られたとは思えない。「反核」にも抵抗がある。「ゴジラ」より数ヶ月先にアメリカで「放射能X(原題:Them!)という放射能の影響で巨大化したアリが人々を襲う映画が撮られていることからもわかるように、"放射能による怪物化"という流れはすでに映画界に存在していたのだ。ゴジラがそれらアメリカ映画と異なるのは口から発する火炎・白熱光の理由を放射能とした点にある(放射能の影響で巨大化したとは「ゴジラ」では一言も述べられていない)。それにまだ戦後10年にもならない時期。この時の戦争に対する嫌気が反核にまとめられてしまうには早すぎる。それでは原爆以外の、例えば焼夷弾を使った空襲を容認することに繋がりかねない。それにゴジラの破壊力が核兵器そのものなら街は一瞬で破壊され火の海と化すはずだが、実際にはじわじわと火と体の破壊力で壊していく表現をとっており、そのコースも東京大空襲に近いとされている(未確認)。"核"は映画を作る上のテーマではあっただろうが、ゴジラの破壊のイメージは本来部隊と部隊が戦うためにあるはずの兵器を無防備な市民と市街地を破壊するために用いた行為全体にあり、決して"反核"だけを前面に押し出したかったわけではないと思う。なお、本作を監督した本多猪四郎監督は「反核がテーマ」とも「娯楽映画」とも語っているが、すでに発表済みの作品に対しておおぜいの人がいろんな印象を持っている以上、それに水を差すような真似はしたくなかったのでインタビューワーの話の流れに合わせるように発言を行ったのではないだろうか。
反戦・反核メッセージの色濃い特撮映画がみたいのなら、「ゴジラ」より「世界大戦争」がおすすめ。
世界大戦争 【期間限定プライス版】 [DVD]フランキー堺,宝田 明,星 由里子,乙羽信子,白川由美東宝
「ゴジラ」と同じ円谷英二特技監督が特撮を担当。ぜひ一度は映画館で観賞したい逸品。
さて内容の考察に入るが、資料として実際の映像作品はもちろんだが書籍に東宝出版事業室の「東宝SF特撮映画シリーズVOL.3 ゴジラ/ゴジラの逆襲/大怪獣バラン」を用いた。初版1985年という古い本だが残存する限りの映画の絵コンテに脚本の準備稿(決定稿ではない)、それに香山滋氏による検討用台本、いわゆる原作が収録されており、今なお資料性の高さでは他の追随を許さない。
"「ゴジラ」反核メッセージ映画"派の最大の理由となっているのが本作最後の長いセリフである山根博士の言葉だろう。
「あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかへあらわれてくるかも知れない・・・」
ではこのセリフの前後の山根博士の行動を中心に考察してみよう。
本作のクライマックス。オキシジェン・デストロイヤーを持ってゴジラを葬り去ろうとするための船上で久々に山根博士の台詞がある。海中へと挑む芹沢博士とそれに付きそう尾形に向けた言葉だ。
「いいか、二人とも、くれぐれも気をつけてな(二人「ああ」)。尾形くん、頼むよ(尾形「はい!」)
最初にこの台詞に違和感を感じたとき、同時に背中にちょっとだけ寒いものを感じた。「尾形くん、頼むよ」? ここであらためて頼まれるべき存在はオキシジェン・デストロイヤーを使う芹沢の方だろう。尾形は海底で潜水服を着た行動を支持するための付き添いに過ぎない。尾形に頼むと言うことは、無事芹沢を連れて帰るのが最優先ということだ。つまり、山根博士はオキシジェン・デストロイヤーだかなんだか知らないが、芹沢が作った薬くらいであのゴジラが倒せるなど全く思っていないのである。もっともそれも当然だろう。最強の破壊兵器である水爆でも死なないどころか取り込んでしまうゴジラが死ぬなど山根博士にとっては考えも付かないことなのだ(海底深くに潜んでいたために水爆の破壊力の影響をまともにうけなかった、という可能性はある)。おそらく山根博士はゴジラ研究の一環として船に乗ったのだ。しかし、コジラはその芹沢によって葬られる。
準備稿では、同船したほとんどの人はゴジラが倒されたことをただ喜ぶのみで、芹沢の死を泣くのは恵美子、尾形、新吉の三人だけ。山根は暗然たる面持ちで一人前述の言葉をつぶやいている。ただし、その後に以下の言葉が続く。
「だがその恐るべき被害を解決する方法は、今は既にない・・・ああ、芹沢は再び 帰ってこない・・・」
完成作品よりもっと芹沢個人への言葉となっている。この台詞に限った話ではないが、準備稿ではもっと多く用意されていた芹沢への言葉、他者による彼の内面の代弁の言葉が映画本編ではほとんどカットされてしまっている。尾形も芹沢と同い年で映画本編のように敬語は使わず、「芹沢 また実験室か? 毒だぜ たまには表の空気でも吸えよ!」のような軽い口ぶりで接してくる。まるで仲の良い友人同士にも見えるが芹沢の返答は素っ気ない。おそらく恵美子の一件のため、打ち解けやすい関係になっておこうと無理に軽口を利いているのだと芹沢は考えていたのだろう。準備稿では芹沢は自ら孤立を選んだように見えるのに対し、映画本編では明らかに芹沢は必要な時以外は周囲から忘れられ、孤立せざるを得なかったように見える。芹沢の内面を語るのは本人だけだ。それだけにその内面がどれだけ本心かは分からない。「こんな時ばかり頼ってきて。しかも、俺自身が使いたくない未完成を使えだと?ふざけるな」と怒っていたのかも知れないし、オキシジェン・デストロイヤーが本当にゴジラに通用するのか頭の中で計算していたのかも知れない。ただ周囲の理解のなさに苛立ってはいただろう。準備稿でも絵コンテでも芹沢の死を嘆くのは限られた身内だけで、ラストシーンは後日ヘリコプターで現場を訪れた尾形と恵美子が芹沢に向けた花輪を落とすシーンとなっていた。一方、完成作品ではその身内を含む乗船者全員が「敬礼!」の合図とともに敬礼もしくは黙祷を捧げるシーンに差し替えになっている。もちろん芹沢に対する手向けをしたかったという意向もあれば、死してようやく孤立から解放された芹沢の立場をより痛々しく書くという意向もあったろう。どちらかと言えば前者だろう。
ここにちょっと不思議な演出がある。「敬礼」のあと「直れ」がかかるのだ。作中途中ならともかくラストシーンで死者に対する敬礼や黙祷が捧げられるのなら、普通はその姿勢のままフェードアウトである。その方が"いつまでも見送っていた"という余韻を残した終わり方になるからだ。あえて「直れ」を用いたことに考えられる可能性は二つ。一つは「直れまであって初めて敬礼だ」としたかった本多監督のこだわり。ただ、それだけなら「直れ」のカットは「敬礼」と画は変える必要はないことになる。
「敬礼」のかけ声は尾形や主要登場人物が並ぶカットの時にかかり、一度視点が切られて船員を含む別の船上の群衆にカメラは移り、「直れ」とともに元に戻る。「直れ」のカットをよく見ると、先にあげた主要登場人物を含む群衆の後ろに、先の「敬礼」の時にはいなかった黒い影の人物がいる。ほとんどの人が黙祷の最中であるにも関わらず、明らかに芹沢の沈んでいった海に背を向け、反対側に一歩二歩と歩いている。一人だけ黙祷に参加していないのだ。つまり「直れ」のカットはこの人物をこのシーンに入れることを一つの目的としている。その人物はわざわざ追加されるに足る人物であることからもシルエットからも山根博士とみて間違いないだろう。この黒い後姿が本作の山根博士最後の登場シーンということになる。この意味するものは何だろう。芹沢の死が確実なものになったときに山根博士は一度帽子を脱いで哀悼の意を表している。つまり山根博士は敬礼や黙祷の意味が分からないような非常識な人物ではない。にもかかわらず黙祷中に反対を向いて歩いたということは、山根博士だけが他の大勢の人々と同じ方向を向いていない、一人だけ全く違うことを考えていたという暗示ではないだろうか。
ここでもう一度山根博士の言葉を振り返ってみよう。
「あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかへあらわれてくるかも知れない・・・」
想像もしていなかったゴジラの死、一人だけ黙祷に参加せずに反対側を向いていた態度、映画中のそれまでの言動・・・。わたしの説では、この言葉はよく言われる反核メッセージなどではなくその真逆、第二第三のゴジラの誕生を期待し、水爆実験の継続を願うことで自分を慰める言葉なのだ。我ながら最初にこの結論にたどり着いたときは驚いたが、説明がついてしまったのだから仕方がない。根拠は他にもある。先の資料に掲載されていた原作では、ゴジラに対する5万ボルト電流作戦の際、山根博士はそれを阻止するべく夜にマントをまとって発電所までタクシーを飛ばし、後ろからスイッチ係と技師を鉄棒でボイーンと殴り倒し、スイッチを破壊してゴジラを守ろうとする、何かに憑りつかれたかのような怪人的行動をとるのだ。その山根博士を突き飛ばし、代わりにスイッチを入れたのがその行動を怪しんでつけて来た娘の恵美子である。もちろんゴジラは5万ボルトの電流などものともしない。ただ、完成作品とは異なりこの時のゴジラは鉄塔と付近のジープを数台破壊しただけで街への侵入はしていない。また、山根博士はこのあと東京にしかれた戒厳令と退避命令にしたがい、新聞社の好意もあって信州へ避難してしまったため、最後のオキシジェン・デストロイヤー使用時の船上にはいない。すべてが終わったあと、おもやつれた姿で避難民とともに東京に戻ってくるのみである。原作と完成品は別物ではあるが、キャラクターはその時点である程度作られている。映画の山根博士も本心では研究者としての好奇心が勝ってそうしたことを考えていても決して不思議ではないのである。先の言葉は他の誰が言っても反核メッセージだが、山根博士が口にした場合のみ他の意味にとれてしまう。最後の登場も言われなければ気が付かなかった人も多いだろうし、普通に意味通りにとっても観客としてはいいのだろう。全体的に不穏な空気を残したままこの映画の中では世界が続く、という演出だったように思う。
なお、山根博士は「ゴジラ」直接の続編である「ゴジラの逆襲」でも冒頭の会議のシーンのみ登場する。ここでは「我々は恐れていた」と発言しているが、内心は多少なりとも喜ぶ面があったかも知れない。少なくとも、会議室に持ち込んだ映像から、山根博士が残った資料からだけでもゴジラ研究を続けようとしていたことは明白である。それ以降「逆襲」で登場しないのは、ゴジラやアンギラスが紀伊半島も四国も淡路島も通り越して大阪湾に侵入し、大阪に直接上がってくるとは予想していなかったために大阪に留まらなかったからだろう。ゴジラが同様の行動を後年作品の「ゴジラVSビオランテ」でもとっているところから考えると、四国や紀伊半島にはゴジラの上陸を妨げるものがあり、紀伊水道には半ば自動的にゴジラを大阪湾内に導くものがあるとしか考えられない。わたしには地理の知識も関西や四国の土地勘もないのでそれを推測するのは不可能なので、そのゴジラの本能考察はそちらにお住まいの方にゆだねるとしよう。
「ゴジラ」では3つの狂気の力が存在した。無残に街を破壊する力、それに身を委ね信奉する力、それらに対抗する力を持ちながら我関せずを貫こうとした力。いずれも一般市民のことなど眼中になかった。似たようなフォーマットを採用し、後のゴジラシリーズの中ではもっとも第1作に近い作りになっているように思え、個人的に評価しているのが「ゴジラVSキングギドラ」だ。
ゴジラvsキングギドラ 【60周年記念版】 [Blu-ray]大森一樹東宝
"ゴジラの再生"がテーマとして使われたがゆえの、脚本監督両方を担当した大森一樹監督流の原点回帰だったのかも知れない。なお、「放射能の影響で巨大化したゴジラ」という概念は意外にも「VSキングギドラ」が初めて。それ以前の東宝怪獣を見ても、放射能による巨大化がはっきりしているのは「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」のカマキラスくらい、後は「空の大怪獣ラドン」で可能性が示唆される程度である。それゆえゴジラは100mにまで巨大化する。これは最終決戦場とした新宿都庁があまりに大きいため、1/50スケールでないとスタジオ内に入りきらないという都合があったためと思われる。よく言う「ゴジラを100mにしないと都庁と比べて小さく見えて見栄えが良くないため」はあまり正確ではない。
同様のことを「ゴジラ2000ミレニアム」でも行っている。特に主人公の篠田は当時ノベライズ化された書籍で山根・芹沢両博士を調べてそれを理解する人物と定義され、行動の理念は山根博士に近い。ただ、ゴジラ対抗として用意された敵宇宙人の設定がハマープロ製作の「火星人地球大襲撃」そのまますぎたためにゴジラ絡みのストーリーと平行する形になってしまい、まとまりを欠くものになってしまっている。なお、本作の決戦場は「VSキングギドラ」とおなじく新宿だが巨大ビルとの絡みが合成でも違和感なく行えるようになったためにゴジラの身長は55mまで戻された。その代わり破壊されるミニチュアが小さなものばかりになったが、これは3年間大規模特撮映画を撮らなかったために街並み再現用ミニチュアが大分処分されて在庫が足りなくなり、そっちを用意するだけで精一杯だった事情もあるようだ。
久々に特撮映画の内容について書きたい放題書けて満足。今回の話は熱心な1954年度版ゴジラのファンや特撮マニアからすれば大した話ではないだろうけど、そうでない人には少し新鮮に感じたと思う。わたしの結論は以上だが、この説を他人に押しつける気は全く無い。わたしも素人あなたも素人、解釈はみんなが好きにやればいいと思う。ただ、この手のあまりにも評価が固まっている映画は、放送を録画してみても結局有名シーンや特撮を眺めるだけであとは見飛ばしてしまい、ほとんど鑑賞せずに見たつもりになってしまう傾向がある。それでは半分も堪能したことにならない。ひょっとしたら誰も知らなかった事実がまだ残っているのかも知れない。もうじきBSプレミアムでも放送されるので、是非最初から最後までじっくりと鑑賞して、特撮映像の迫力だけでなく本編演出全体に流れる空気も味わって欲しい。その再考のキッカケに本エントリーがなるのなら、それ以上はわたしにはない。
第一次投票〜あなたが選ぶ!ベスト・オブ・ゴジラ〜|日本映画専門チャンネル
見事初期作品とVSシリーズに真っ二つ。わたしもVS世代なのでこの結果は嬉しい。24時を経過するごとに一回という形なら再投票が何度でも可能みたいなので、今度は東京しようかな? 一次投票のときは一作だけ選ぶというのは他の27作を見捨てるに等しい感触だったので投票しなかったんだけど、今度は投票しようかな? 全作品に(笑)
今回はは特撮ヲタ全開の考察記事。
配給会社の名前から一部ですでに"レジェゴジ"の略称も使われているアメリカ版新作「GODZILLA」(ちなみに1998年版は"トラゴジ")の公開がようやく目の前に迫ってきた。テレビはもちろん一般の雑誌や新聞にも"ゴジラ完全復活"などの見出しで取り上げられ、大きな話題となっているように見える。今まで日本のゴジラが復活しようとも目もくれなかったメディアがアメリカでやるとなった途端急に扱いが大きくなって「日本人総ゴジラファン」のように書くさまは、"ゴジラ復活"を願って尽力し、レジェゴジでもプロデューサーの一人として名を連ねている坂野義光氏(映画「ゴジラ対ヘドラ」の監督としても有名)の努力によるものであると分かっていても、一日本怪獣映画ファンとしてはやはりくやしいとも思うし、メディアの取り上げ方にもう一つ気にいらなさも感じる。
中でも第一作の扱いが、「反戦・反核のメッセージを込めた映画」扱いになっていることだ。これは大変遺憾。1954年度映画「ゴジラ」はそんな説教くさいメッセージ映画ではない、ガチな娯楽作品なのだ。このままでは「ゴジラ」は普通の人にとって視聴に抵抗のある、敷居の高い芸術作品になってしまう。それには抵抗したい。そこで今回は考察の名のもと、そういう勝手に「ゴジラ」をまつりあげようとする風潮の話の腰を折るエントリーを書きたいと思う。内容を知って言うことを前提に書いているので未見の人は何書いているか分からないだろうが勘弁。ゴジラの見方は一つではないということが本項のテーマだ。
なお、特撮に関しては前にも書いているので取り上げない。なにより劇場で見上げるような姿勢で大スクリーンを見るのと家のテレビやPC、まして見下ろす形で利用するノートPCでのDVDか何かで見る特撮映像ではそれだけで迫力が天と地の差になるからだ。くれぐれも劇場で見たハリウッド作品とノーパソでみた日本特撮を印象で比較して「アメリカのCGの方がずっと迫力がある」と評するようなマネはしないで欲しい。
映画の内容からは外れるが、まず「反戦」はそもそもあり得ない。今でこそ戦争映画と言えばみじめに日本軍が惨敗する悲劇の映画しか作られなくなっているが、まだまだ当時は日本軍の勝利を描いた戦争映画がいくつも作られていた時代だ。戦闘はやや縁遠くなったが故にエンターテインメントとして描かれ、かっこいい軍艦や戦闘機は憧れの存在だ。「ゴジラ」のターゲットはそういう人に近く、反戦という言葉を意識して作られたとは思えない。「反核」にも抵抗がある。「ゴジラ」より数ヶ月先にアメリカで「放射能X(原題:Them!)という放射能の影響で巨大化したアリが人々を襲う映画が撮られていることからもわかるように、"放射能による怪物化"という流れはすでに映画界に存在していたのだ。ゴジラがそれらアメリカ映画と異なるのは口から発する火炎・白熱光の理由を放射能とした点にある(放射能の影響で巨大化したとは「ゴジラ」では一言も述べられていない)。それにまだ戦後10年にもならない時期。この時の戦争に対する嫌気が反核にまとめられてしまうには早すぎる。それでは原爆以外の、例えば焼夷弾を使った空襲を容認することに繋がりかねない。それにゴジラの破壊力が核兵器そのものなら街は一瞬で破壊され火の海と化すはずだが、実際にはじわじわと火と体の破壊力で壊していく表現をとっており、そのコースも東京大空襲に近いとされている(未確認)。"核"は映画を作る上のテーマではあっただろうが、ゴジラの破壊のイメージは本来部隊と部隊が戦うためにあるはずの兵器を無防備な市民と市街地を破壊するために用いた行為全体にあり、決して"反核"だけを前面に押し出したかったわけではないと思う。なお、本作を監督した本多猪四郎監督は「反核がテーマ」とも「娯楽映画」とも語っているが、すでに発表済みの作品に対しておおぜいの人がいろんな印象を持っている以上、それに水を差すような真似はしたくなかったのでインタビューワーの話の流れに合わせるように発言を行ったのではないだろうか。
反戦・反核メッセージの色濃い特撮映画がみたいのなら、「ゴジラ」より「世界大戦争」がおすすめ。

「ゴジラ」と同じ円谷英二特技監督が特撮を担当。ぜひ一度は映画館で観賞したい逸品。
さて内容の考察に入るが、資料として実際の映像作品はもちろんだが書籍に東宝出版事業室の「東宝SF特撮映画シリーズVOL.3 ゴジラ/ゴジラの逆襲/大怪獣バラン」を用いた。初版1985年という古い本だが残存する限りの映画の絵コンテに脚本の準備稿(決定稿ではない)、それに香山滋氏による検討用台本、いわゆる原作が収録されており、今なお資料性の高さでは他の追随を許さない。
"「ゴジラ」反核メッセージ映画"派の最大の理由となっているのが本作最後の長いセリフである山根博士の言葉だろう。
「あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかへあらわれてくるかも知れない・・・」
ではこのセリフの前後の山根博士の行動を中心に考察してみよう。
本作のクライマックス。オキシジェン・デストロイヤーを持ってゴジラを葬り去ろうとするための船上で久々に山根博士の台詞がある。海中へと挑む芹沢博士とそれに付きそう尾形に向けた言葉だ。
「いいか、二人とも、くれぐれも気をつけてな(二人「ああ」)。尾形くん、頼むよ(尾形「はい!」)
最初にこの台詞に違和感を感じたとき、同時に背中にちょっとだけ寒いものを感じた。「尾形くん、頼むよ」? ここであらためて頼まれるべき存在はオキシジェン・デストロイヤーを使う芹沢の方だろう。尾形は海底で潜水服を着た行動を支持するための付き添いに過ぎない。尾形に頼むと言うことは、無事芹沢を連れて帰るのが最優先ということだ。つまり、山根博士はオキシジェン・デストロイヤーだかなんだか知らないが、芹沢が作った薬くらいであのゴジラが倒せるなど全く思っていないのである。もっともそれも当然だろう。最強の破壊兵器である水爆でも死なないどころか取り込んでしまうゴジラが死ぬなど山根博士にとっては考えも付かないことなのだ(海底深くに潜んでいたために水爆の破壊力の影響をまともにうけなかった、という可能性はある)。おそらく山根博士はゴジラ研究の一環として船に乗ったのだ。しかし、コジラはその芹沢によって葬られる。
準備稿では、同船したほとんどの人はゴジラが倒されたことをただ喜ぶのみで、芹沢の死を泣くのは恵美子、尾形、新吉の三人だけ。山根は暗然たる面持ちで一人前述の言葉をつぶやいている。ただし、その後に以下の言葉が続く。
「だがその恐るべき被害を解決する方法は、今は既にない・・・ああ、芹沢は再び 帰ってこない・・・」
完成作品よりもっと芹沢個人への言葉となっている。この台詞に限った話ではないが、準備稿ではもっと多く用意されていた芹沢への言葉、他者による彼の内面の代弁の言葉が映画本編ではほとんどカットされてしまっている。尾形も芹沢と同い年で映画本編のように敬語は使わず、「芹沢 また実験室か? 毒だぜ たまには表の空気でも吸えよ!」のような軽い口ぶりで接してくる。まるで仲の良い友人同士にも見えるが芹沢の返答は素っ気ない。おそらく恵美子の一件のため、打ち解けやすい関係になっておこうと無理に軽口を利いているのだと芹沢は考えていたのだろう。準備稿では芹沢は自ら孤立を選んだように見えるのに対し、映画本編では明らかに芹沢は必要な時以外は周囲から忘れられ、孤立せざるを得なかったように見える。芹沢の内面を語るのは本人だけだ。それだけにその内面がどれだけ本心かは分からない。「こんな時ばかり頼ってきて。しかも、俺自身が使いたくない未完成を使えだと?ふざけるな」と怒っていたのかも知れないし、オキシジェン・デストロイヤーが本当にゴジラに通用するのか頭の中で計算していたのかも知れない。ただ周囲の理解のなさに苛立ってはいただろう。準備稿でも絵コンテでも芹沢の死を嘆くのは限られた身内だけで、ラストシーンは後日ヘリコプターで現場を訪れた尾形と恵美子が芹沢に向けた花輪を落とすシーンとなっていた。一方、完成作品ではその身内を含む乗船者全員が「敬礼!」の合図とともに敬礼もしくは黙祷を捧げるシーンに差し替えになっている。もちろん芹沢に対する手向けをしたかったという意向もあれば、死してようやく孤立から解放された芹沢の立場をより痛々しく書くという意向もあったろう。どちらかと言えば前者だろう。
ここにちょっと不思議な演出がある。「敬礼」のあと「直れ」がかかるのだ。作中途中ならともかくラストシーンで死者に対する敬礼や黙祷が捧げられるのなら、普通はその姿勢のままフェードアウトである。その方が"いつまでも見送っていた"という余韻を残した終わり方になるからだ。あえて「直れ」を用いたことに考えられる可能性は二つ。一つは「直れまであって初めて敬礼だ」としたかった本多監督のこだわり。ただ、それだけなら「直れ」のカットは「敬礼」と画は変える必要はないことになる。
「敬礼」のかけ声は尾形や主要登場人物が並ぶカットの時にかかり、一度視点が切られて船員を含む別の船上の群衆にカメラは移り、「直れ」とともに元に戻る。「直れ」のカットをよく見ると、先にあげた主要登場人物を含む群衆の後ろに、先の「敬礼」の時にはいなかった黒い影の人物がいる。ほとんどの人が黙祷の最中であるにも関わらず、明らかに芹沢の沈んでいった海に背を向け、反対側に一歩二歩と歩いている。一人だけ黙祷に参加していないのだ。つまり「直れ」のカットはこの人物をこのシーンに入れることを一つの目的としている。その人物はわざわざ追加されるに足る人物であることからもシルエットからも山根博士とみて間違いないだろう。この黒い後姿が本作の山根博士最後の登場シーンということになる。この意味するものは何だろう。芹沢の死が確実なものになったときに山根博士は一度帽子を脱いで哀悼の意を表している。つまり山根博士は敬礼や黙祷の意味が分からないような非常識な人物ではない。にもかかわらず黙祷中に反対を向いて歩いたということは、山根博士だけが他の大勢の人々と同じ方向を向いていない、一人だけ全く違うことを考えていたという暗示ではないだろうか。
ここでもう一度山根博士の言葉を振り返ってみよう。
「あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかへあらわれてくるかも知れない・・・」
想像もしていなかったゴジラの死、一人だけ黙祷に参加せずに反対側を向いていた態度、映画中のそれまでの言動・・・。わたしの説では、この言葉はよく言われる反核メッセージなどではなくその真逆、第二第三のゴジラの誕生を期待し、水爆実験の継続を願うことで自分を慰める言葉なのだ。我ながら最初にこの結論にたどり着いたときは驚いたが、説明がついてしまったのだから仕方がない。根拠は他にもある。先の資料に掲載されていた原作では、ゴジラに対する5万ボルト電流作戦の際、山根博士はそれを阻止するべく夜にマントをまとって発電所までタクシーを飛ばし、後ろからスイッチ係と技師を鉄棒でボイーンと殴り倒し、スイッチを破壊してゴジラを守ろうとする、何かに憑りつかれたかのような怪人的行動をとるのだ。その山根博士を突き飛ばし、代わりにスイッチを入れたのがその行動を怪しんでつけて来た娘の恵美子である。もちろんゴジラは5万ボルトの電流などものともしない。ただ、完成作品とは異なりこの時のゴジラは鉄塔と付近のジープを数台破壊しただけで街への侵入はしていない。また、山根博士はこのあと東京にしかれた戒厳令と退避命令にしたがい、新聞社の好意もあって信州へ避難してしまったため、最後のオキシジェン・デストロイヤー使用時の船上にはいない。すべてが終わったあと、おもやつれた姿で避難民とともに東京に戻ってくるのみである。原作と完成品は別物ではあるが、キャラクターはその時点である程度作られている。映画の山根博士も本心では研究者としての好奇心が勝ってそうしたことを考えていても決して不思議ではないのである。先の言葉は他の誰が言っても反核メッセージだが、山根博士が口にした場合のみ他の意味にとれてしまう。最後の登場も言われなければ気が付かなかった人も多いだろうし、普通に意味通りにとっても観客としてはいいのだろう。全体的に不穏な空気を残したままこの映画の中では世界が続く、という演出だったように思う。
なお、山根博士は「ゴジラ」直接の続編である「ゴジラの逆襲」でも冒頭の会議のシーンのみ登場する。ここでは「我々は恐れていた」と発言しているが、内心は多少なりとも喜ぶ面があったかも知れない。少なくとも、会議室に持ち込んだ映像から、山根博士が残った資料からだけでもゴジラ研究を続けようとしていたことは明白である。それ以降「逆襲」で登場しないのは、ゴジラやアンギラスが紀伊半島も四国も淡路島も通り越して大阪湾に侵入し、大阪に直接上がってくるとは予想していなかったために大阪に留まらなかったからだろう。ゴジラが同様の行動を後年作品の「ゴジラVSビオランテ」でもとっているところから考えると、四国や紀伊半島にはゴジラの上陸を妨げるものがあり、紀伊水道には半ば自動的にゴジラを大阪湾内に導くものがあるとしか考えられない。わたしには地理の知識も関西や四国の土地勘もないのでそれを推測するのは不可能なので、そのゴジラの本能考察はそちらにお住まいの方にゆだねるとしよう。
「ゴジラ」では3つの狂気の力が存在した。無残に街を破壊する力、それに身を委ね信奉する力、それらに対抗する力を持ちながら我関せずを貫こうとした力。いずれも一般市民のことなど眼中になかった。似たようなフォーマットを採用し、後のゴジラシリーズの中ではもっとも第1作に近い作りになっているように思え、個人的に評価しているのが「ゴジラVSキングギドラ」だ。

"ゴジラの再生"がテーマとして使われたがゆえの、脚本監督両方を担当した大森一樹監督流の原点回帰だったのかも知れない。なお、「放射能の影響で巨大化したゴジラ」という概念は意外にも「VSキングギドラ」が初めて。それ以前の東宝怪獣を見ても、放射能による巨大化がはっきりしているのは「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」のカマキラスくらい、後は「空の大怪獣ラドン」で可能性が示唆される程度である。それゆえゴジラは100mにまで巨大化する。これは最終決戦場とした新宿都庁があまりに大きいため、1/50スケールでないとスタジオ内に入りきらないという都合があったためと思われる。よく言う「ゴジラを100mにしないと都庁と比べて小さく見えて見栄えが良くないため」はあまり正確ではない。
同様のことを「ゴジラ2000ミレニアム」でも行っている。特に主人公の篠田は当時ノベライズ化された書籍で山根・芹沢両博士を調べてそれを理解する人物と定義され、行動の理念は山根博士に近い。ただ、ゴジラ対抗として用意された敵宇宙人の設定がハマープロ製作の「火星人地球大襲撃」そのまますぎたためにゴジラ絡みのストーリーと平行する形になってしまい、まとまりを欠くものになってしまっている。なお、本作の決戦場は「VSキングギドラ」とおなじく新宿だが巨大ビルとの絡みが合成でも違和感なく行えるようになったためにゴジラの身長は55mまで戻された。その代わり破壊されるミニチュアが小さなものばかりになったが、これは3年間大規模特撮映画を撮らなかったために街並み再現用ミニチュアが大分処分されて在庫が足りなくなり、そっちを用意するだけで精一杯だった事情もあるようだ。
久々に特撮映画の内容について書きたい放題書けて満足。今回の話は熱心な1954年度版ゴジラのファンや特撮マニアからすれば大した話ではないだろうけど、そうでない人には少し新鮮に感じたと思う。わたしの結論は以上だが、この説を他人に押しつける気は全く無い。わたしも素人あなたも素人、解釈はみんなが好きにやればいいと思う。ただ、この手のあまりにも評価が固まっている映画は、放送を録画してみても結局有名シーンや特撮を眺めるだけであとは見飛ばしてしまい、ほとんど鑑賞せずに見たつもりになってしまう傾向がある。それでは半分も堪能したことにならない。ひょっとしたら誰も知らなかった事実がまだ残っているのかも知れない。もうじきBSプレミアムでも放送されるので、是非最初から最後までじっくりと鑑賞して、特撮映像の迫力だけでなく本編演出全体に流れる空気も味わって欲しい。その再考のキッカケに本エントリーがなるのなら、それ以上はわたしにはない。