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テレビ局関係者によるテレビ歴史本として読むべし

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今年一発目の、このブログのテーマに合いそうな本。昨年デジタル化という最大の危機を乗り切り、これからも仕組みは変わらないことを表明した地上テレビ業界をいまさら批評する本は出ないと思っていたので、ちょっと意外ではあった。

テレビ局削減論 (新潮新書)石光 勝新潮社

著者は元テレビ東京の常務取締役にして、自称「ゴールデンアワーの食べ物番組」「ジャンルを無視したスペシャル番組」の企画にかかわり、「深夜の時間帯で最初に通販番組を放送した」「一商品に30分もかけるインフォマーシャルという通販番組を始めた」人。つまり、現在の地上波/BSテレビの惨状のキッカケを作った人である。そのために自虐的に「「お前にだけは言われたくない」という声が聞こえてくる気がしました」と後書きにある。それでありながら本書の中身はおおむねその結果生じた「番組のつまらなさ」「通販ばかり」と言った視聴者の批判と自分を同調させているものになったいるのだから、たいしたことはない。
なにせ著者の知識がやや古い。黎明期の成り立ちや海外の事情は詳しく書いてはあるものの、最近のテレビ事情に関してはそこまで踏み込んだことは書いていない。デジタル放送の周辺にいたっては本書の中での説明はせいぜい移行に伴う各局の出費に簡単に触れているくらいで、ほぼ皆無と言っていい。著者の考えではアナログからデジタルへの移行はただの移行であってそれ以上のものではないのかも知れない。が、現在テレビ局批判本を書くのなら、デジタル放送に関する意見は必要不可欠な要素である。そこを飛ばすことは、読者の期待を裏切った内容と酷評されても仕方がないだろう。少なくともわたしはする。

そもそも著者の考えは「地上局テレビが世論を導く最大最強のメディアであり、その訴求力がマス媒体のなかで他の追随を許さないことは今もって変わりはない」というものである。が、これはもはや古い考え方であろう。確かにテレビの影響力はきわめて大きい。ただし、今までの報道の中でテレビが「嘘つき」であること、「世論誘導のためならば過剰演出もまったく厭わない」マス媒体であることを、我々は学んでいる。テレビの報道は、それで情報を得たとしてもそれはキッカケに過ぎない。改めてネットなどで調べなおして、初めて真実であるか、自分はその情報を追うべきかどうかを判断しているのが、ネットをあって当然のものと思う現代人ではないだろうか。いまさらテレビのコメンテーターの語りや画面上に展開される演出たっぷりの映像などで思考をコントロールされる人など少数派ではないだろうか。
個人的にはテレビより新聞のほうが報道としてはるかに上であると考えている。もはや情報としては古いものしか提供できなくなっている新聞ではあるが、ネット情報収集の弱点である「興味のある情報しか眼に入らない」漏れの多さを補う点では重宝する。強く興味を持たない情報なら、一日程度遅れてもそれほど自分にとって不利益にならないからである。また、ネットは情報の宝庫だと言っても、社会的事件などにおいての一時情報は新聞のような大手の経営するニュースサイトで、そこからの引用であることも多い。今後は新聞サイトも簡単に情報を誰でも読めないようにする有料配信へと移行したいようだからその関係も変わるかもしれないが、おそらく新聞側の情報発信なくしてネットを情報媒体とすることはできない。だが、テレビはそうではない。テレビがなくてもネット情報は成り立つ。報道としてのテレビは、東京の電車にある中吊り広告の週刊誌の見出し程度の価値しかないのである。

実は、この本で主張されている局削減の話も、かつてほどは無理にしろテレビの報道の力を復活させ、マス媒体としてテレビ局を経営を成り立たせようというものである。つまり、我々一般市民向けの意見ではなく、テレビ局に対しての提案となっているのだ。だから、2010年の放送法改正において「放送と通信の融合」がうたわれたことに対しての解説ページでも、テレビ局が如何に通信を利用するかを提案したものに過ぎず、まるで「融合とは放送が通信を飲み込み、利用することである」と言っているかのようだ。そこに一切の疑問をはさんでいない。そのため、テレビ局ぶっだ切り論を期待して買うと少しガッカリする。
実際、それほどテレビ局の削減を希望している人はいるのだろうか? 地方では「むしろ増やしてくれ」と思っている人も多い。これはテレビが報道として期待されているからではなく、あくまで娯楽の提供先として存在するものと考えられているからだ。だから、仮にテレビ局を削減してもかまわないという意見があったとしても、それは「自分にとって見たいと思う番組を放送していない局はいらない」というのが最大の意見となるだろう。仮に報道番組が皆無でも、自分に興味のある娯楽番組ばかり無料で提供する無料の地上波放送局が存在したら、それはキー局よりも歓迎されるのではないだろうか。

ただ、著者がテレビ界の内側にいたのは事実であるため、我々ではなかなか知りえない情報、なんとなく察してはいたが確信は持てなかった話などを知ることができる点は興味深い。
たとえば、先の震災直後の、一般番組における公共広告機構のCMだらけの件。あれは自粛によってスポンサーが自らCMの放送を取り下げた結果生じた現象であるため、契約上スポンサーはCMが流れなくても放送局や番組に対して広告料を払っている、という話がある。なんとなくそうかも、とは思っていたが、元内部の人が書くと説得力がある。ただし、契約上は全額支払わなくてはならないが、おそらく交渉などによって予定の金額は支払われなかっただろうととも書いている。
他にも、歴史的テレビ局の成り立ち、テレビ番組がつまらなくなっていった経緯などはそれなりに踏み込んでいる。が、何か肩透かしをくったように、知りたいところの手前でとまってしまう。あと半歩書いてくれればいいのに、と思うのだが、やはり企業秘密・政治的配慮がそれを許さないのか、まだ書くことがあるだろうという段階で勝手に結論付けられている感が漂っている構成になっている。それでも、「なぜこうなるのか」「これからどうすべきか」という提案部分をすべて無視し、あくまでテレビ局周囲の歴史的背景を知るためならばこの本はそれなりに読む価値はある。知識を得るためならば良いが、その先の思考のための手がかりを得たいのならばお勧めしない。


おわび:最初にアップしたときにこの下に情報を誤った文を書きましたので削除しました。

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